とうは私自費出版にしたいと思うんですけれど、そのお金ができそうもないものですから。」
「そうね、僕も心配はしてみるけれど……。」
 庸三は暗然とした気持で、彼女の生活を思いやるだけであった。
「先生も大変ですね。お子さまが多くて……。梢さんどうなさいましたの。」
「葉子は今田舎にいますけど……。」
「私のようなものでよかったら、お子さんのお世話してあげたいと思いますけれど。」
「貴女《あなた》がね。それは有難いですが……。事によるとお願いするかも知れません。」
「ええいつでも……。」
 彼女は机の上にひろげた詩稿を纏《まと》めて帰って行った。
 彼はその日のうちに葉子に手紙を書いた。その詩を讃《ほ》めると同時に、子供の世話を頼もうかと思っている云々《うんぬん》と。すると三日目に葉子から返事がとどいて、長々しい手紙で、少しいきり立った文句で、それに反対の意見を書いて来た。でなくとも、女給をして来た人では、庸三の家政はどうかという意見もほかの人から出たので、彼もそれは思い止《とど》まることにした。
 庸三は風呂《ふろ》で汗を流してから、いつもの風通しのいい小間で、小夜子とその話をしていた。
 この水辺の意気造りの家も、水があるだけに、来たてにはひどく感じがよかったが、だんだん来つけてみると、彼女の前生活を語るようなもろもろの道具――例えば二十五人の人夫の手で据《す》えつけたという、日本へ渡って来た最大の独逸《ドイツ》製金庫の二つのうちの一つだという金庫なぞがそれで、何かそこらの有閑マダムのような雰囲気《ふんいき》ではあったが、室内の装飾などは、何といってもあまり感じのいいものではなかった。
「そのうち追々取り換えるんだね。」
 庸三は窓際《まどぎわ》に臥《ね》そべっていた。小夜子も彼の頭とほとんど垂直に顔をもって来て、そこに長くなっていた。そうして話していると、彼女の目に何か異様な凄《すご》いものが走るのであった。
「私芝にいた時、ちょうど先生にお目にかかった時分、こういうことがあったんです。」
 小夜子は語るのであった。
「ある人がね、私は麹町《こうじまち》の屋敷を出たばかりで、方針もまだ決まらない時分なの。するとその人がね、君ももう三十を過ぎて、いろんなことをやって来ている。鯛《たい》でいえば舐《ねぶ》りかすのあらみたいなもんだから、いい加減見切りをつけて、安く売ったらいいだろうって、私に五百円おいて行ったものなの。」
「それが君のペトロンなの。」
「ペトロンなんかないけど。」
「一体君いくつなの?」
「私ですか。そうね。」彼女の答えは曖昧《あいまい》であった。彼に女の年を聞く資格もなかった。
「その男は?」
「それきりですの。」
「金は。」
「金は使っちゃいましたわ。」
 それが一夜の彼女の貞操の代償というわけであった。彼女は今でもそれを千円くらいに踏んでいるものらしかった。
「その男は――株屋?」
「株屋じゃありません。株屋ならちょっと大きい人の世話に、この土地で出ていた時分にはなったこともありましたけれど、その人も震災ですっかりやられてしまいましたわ。」
 そして彼女はその株屋の身のうえを話し出した。
「その人がまだお店の番頭時代――二十四くらいでしたろうか、ある時お座敷に呼ばれて、ちょっといいなあと思ったものです。たびたび逢《あ》っているうちに深くなって、店をわけてもらったら、一緒になろうなんて言っていたものでしたが、ほかにお客ができたものですから、それはそれきりになって、私も間もなく堅気になったものですから、ふつり忘れてしまっていたもんなんです。すると、十年もたって、私がまた商売に出るようになってから、株屋仲間のお座敷へ呼ばれて行くと、その中にその人のお友達もいて、おせっかいなことには、四五人で私を芝居につれて行って、同じ桟敷《さじき》でその男に逢わしたものです。その男も今は旦那《だんな》が死んで、堅いのを見込まれて、婿《むこ》養子として迹《あと》へ据《す》わって、采配《さいはい》を振るっているという訳で、ちょっと悪くないから私もその気で、再び縒《よ》りが戻ったんですの。私はそうなると、お神さんのあるのが業腹《ごうはら》で帰してやるのがいやなんです。お神さんは三つも年上で、夜通し寝ないで待っているという妬《や》き方で、その人の手と来たら、紫色のあざが絶えないという始末なんです。到頭その店を飛び出して二人で世帯《しょたい》をもったんですけれど、それからはどうもよくありませんでしたね。私もいい加減見切りをつけて、クルベーさんの世話になったんですが、震災のあの騒ぎの時、よくせきのことだと見えて、その男が店のものを金の無心に寄越《よこ》しましたわ。自分でもやって来ましたわ。僅かの金なんでしたけれど、私部屋へ帰って考えると、何
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