をのぞいてみると、いつの間にか起き出した小夜子は、お燈明の煌々《こうこう》と輝く仏壇の前に坐りこんで、数珠《じゅず》のかかった掌《て》を合わせて、殊勝げにお経をあげていた。庸三にとっては、この場合思いもかけなかった光景であったが、商売柄とはいえ、多くの異性にとかくえげつない振舞の多かった自身の過去を振り返るごとに、彼女はそぞろに心の戦《おのの》きを禁じ得ないものがあった。クルベーの厚い情愛で、長い病褥《びょうじょく》中行きとどいた看護と金目を惜しまない手当を受けながら、数年前に死んで行った老母が「そんなことをしてよく殺されもしないものだ」と言って、彼女の成行きを憂えたくらい、彼女は際《きわ》どい離れ業《わざ》をして来たのであった。華族の若さまなどが入り浸っていた女給時代に、すでにそれが初まっていた。
 仏壇のある中の間には、マホガニか何かのと、桐《きり》の箪笥《たんす》とが三棹《みさお》も並んでいて、三味線箱《しゃみせんばこ》も隅《すみ》の方においてあった。ごちゃごちゃ小物の多い仏壇に、新派のある老優にそっくりの母の写真が飾ってあったが、壁に同じ油絵の肖像も懸《か》かっていた。小夜子は庸三が来たことも気づかないように、一心不乱に拝んでいた。
 庸三は言わるるままに廊下をわたって、風呂場《ふろば》の方へ行った。天井の高い風呂場は、化粧道具の備えつけられた脱衣場から二三段降りるようになっていた。そして庸三が一風呂つかって、顔を剃《あた》っていると、そこへ小夜子も入って来た。男を扱いつけている彼女にとって、それは一緒にタキシイに乗るのと何の異《かわ》りもなかった。
 やがて小夜子は焚《た》き口の方に立って、髪をすいた。なだらかな撫《な》で肩《がた》、均齊《きんせい》の取れた手や足、その片膝《かたひざ》を立てかけて、髪を束ねている図が、春信《はるのぶ》の描く美人の型そのままだと思われた。しかしそんな場合でも、庸三は葉子の美しい幻を忘れていなかった。これも一つの美人の典型であろうが、自然さは葉子の方にあった。
「先生何か召《め》し食《あが》ります? トストでも。」
「そうね。」
「私御飯いただいたんですよ。これからお山へお詣《まい》りに行くんですけれど、一緒に来て下さいません?」
「お山って。」
「待乳山《まつちやま》ですの。」
「変なところへお詣りするんだね。何かいいことがあるのかい。」
「あすこは聖天《しょうでん》さまが祀《まつ》ってあるんですの。あらたかな神さまですわ。舟で行くといいんですけれど。」
 お昼ちかくになってから、不断着のままの小夜子と同乗して、庸三もお山の下まで附き合った。そしてタキシイのなかでお山の段々から彼女の降りて来るのを待っていたが、それからも彼は二三度お詣りのお伴《とも》をして、ある時は段々をあがって、香煙の立ち昇っている御堂近くまで行ってみたこともあった。

 ある日も庸三はこの水辺の家へタキシイを乗りつけた。
 彼は三日目くらいには田舎《いなか》にいる葉子に手紙を書いた。書いたまま出さないのもあったが、大抵は投函《とうかん》した。もう幾本葉子の手許《てもと》にあるかなぞと彼は計算してみた。いずれいつかはそっくり取り返してしまうつもりであったし――またほとんど一本も残らずある機会に巧く言いくるめて取りあげてしまったのであったが、そんな予想をもちながらも、やはり書かないわけに行かなかった。今まで気もつかなかった、変に捻《ねじ》けた自我がそこに発見された。葉子を脅《おど》かすようなことも時には熱情的に書きかねないのであった。葉子のような文学かぶれのした女を楽しましめるような手紙は、無論彼には不得手でもあったし、気恥ずかしくもあった。
 そうした時、ある日陰気な書斎に独りいるところへ、一人の女流詩人が詩の草稿をもって訪ねて来た。年の若い体の小さいその女流詩人は、見たところ小ざっぱりした身装《みなり》もしていなかったが、感じは悪くなかった。彼女の現在は神楽坂《かぐらざか》の女給であったが、その前にしばらく庸三の親友の郊外の家で、家事に働いていたこともあった。彼女は今絶望のどん底にあるものらしかったが、客にサアビスする隙々《ひまひま》に、詩作に耽《ふけ》るのであった。毎日々々の生活が、やがて彼女の歔欷《すすりなき》の詩であり、酷《むご》い運命の行進曲であった。
 彼女の持ち込んだ詩稿のなかにはすでに印刷されているものも沢山あったが、庸三はその一つ二つを読んでいるうちに、詩のわからない彼ではあったが、何か彼女の魂の苦しみに触れるような感じがして、つい目頭《めがしら》が熱くなり、心弱くも涙が流れた。
「これをどこか出してくれる処《ところ》がないものかと思いますけれど……。」
「そうね、ちょっと僕ではどうかな。」
「ほん
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