夫婦も先生んとこ出ちゃいけないと言うんですの。――ここの御主人、先生のことよく知ってますわ。死んだ親爺《おやじ》さんは越後《えちご》の三条の人で、呉服物をもってよく先生のとこへ行ったもんだそうですよ。その人は亡くなって、息子《むすこ》さんが今の主人なんですの。」
「色の白い、温順《おとな》しい……。」
「いい人よ。」
「君はまたどうして……。」
「ここ秋本さんの宿ですもの。あの人に短歌の整理をしてもらったり何かしたのも、ここですもの。」
庸三はある時は子息《むすこ》をつれて、しばしば重い荷物を持ち込んで来た、越後らしいごつい体格のあの商人を思い出したが、同時にあの貴公子風の情熱詩人と葉子との、ここでのロオマンスを想像してみた。それにしては現実の背景が少し貧弱で、何か物足りない感じであった。やがて圧倒的な、そして相当|狡獪《こうかい》な彼の激情に動かされて、とにかく葉子は帰ることに決めた。
「じゃ、もうちょっとしたら行きます。きっと行くわ。」
「そう。」
葉子は顔を熱《ほて》らせていた。そして庸三が出ようとすると壁際《かべぎわ》にぴったり体を押しつけて立っていながら、「唇《くちびる》を! 唇を!」と呼んだ。
庸三は小返《こがえ》りした。
葉子が車でやって来たのは、庭の隅《すみ》にやや黄昏《たそがれ》の色の這いよる時分で、見にやった庸太郎を先立ちに、彼女は手廻りのものを玄関に運ばせて、瑠美子をつれて上がって来た。
「庸太郎さんとお茶を呑《の》んだりしていたもんですから……。それからこんなものですけれど、もしよかったらこの部屋にお敷きになったらどうかと思って……。」
葉子はそう言って、持って来た敷物を敷いてみた。
「どうです、このネクタイ!」
縁側では、子供が葉子に買ってもらった、仏蘭西製《フランスせい》の派手なネクタイを外光に透かして見ていた。
学校が休みになると、子供は挙《こぞ》って海へ行った。瑠美子も仲間に加わらせた。
読んだり書いたり、映画を見たりレコオドを聴《き》いたり、晩は晩で通りの夜店を見に行ったり、時とすると上野辺まで散歩したり――しかしこの生活がいつまで続くかという不安もあって……続けば続く場合の不安もあって、庸三の心はとかく怯《おび》えがちであった。すべての人生劇にとっても、困難なのはいずれ大詰の一幕で、歴史への裁断のように見通しはつ
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