くびょう》な彼の心は、次第に恥知らずになって、どうかすると卑小な見えのようなものも混ざって、引込みのつかないところまで釣りあげられてしまった。
 引込みのつかなかったのは、庸三ばかりではなかった。すっかり自分のものになしきってしまった庸三からの逃げ道を見失って、今は彼女も当惑しているのであった。
「僕を独りで帰そうというんだね。」
 庸三はすれすれに歩いている葉子を詰《なじ》った。一抹《いちまつ》の陰翳《いんえい》をたたえて、彼女の顔は一層美しく見えた。
「そうじゃないけど、少し話も残して来たし、私後から行っちゃいけない?」
「そうね。」
「先生はいいのよ。だけどお子さんたちがね。」
 葉子は別居を望んでいたが、子供たちから離れうる彼ではないことも解《わか》っていた。そして庸三の悩みもそこにあった。彼は「今までの先生の家庭の仕来《しきた》り通りに……」と誓った葉子のかつての言葉を、とっこに取るにはあまりに年齢の違いすぎることも知っていたが、彼女に殉じて子供たちから離れるのはなおさら辛《つら》かった。独りもののいつもぶつかるデレムマだが、同時にそれは当面の経済問題でもあった。何よりも彼は、葉子の苦しい立場に対する客観を欠いていた。
 とにかく次ぎのA――市行きを待って、葉子も朗らかに乗りこんだ。そして東京行きの夜行を待つあいだ、タキシイでざっと町を見てまわった。風貌《ふうぼう》の秀《ひい》でた藩公の銅像の立っている公園をも散歩した。
 汽車に乗ってからも、庸三は滞在中の周囲の空気――自身の態度、何か気残りでもあるらしい葉子の素振りなどが気にかかった。町の写真師の撮影所で、記念写真を撮《と》られたことも何か気持にしっくり来なかった。撮影所は美しい※[#「※」は「木+要」、第4水準2−15−13、166−下−21]垣《かなめがき》の多い静かな屋敷町にあったが、葉子はかつての結婚式に着たことのある、長い振袖《ふりそで》に、金糸銀糸で鶴《つる》や松を縫い取った帯を締め、近いうち台湾にいる理学士のところへ嫁《とつ》ぐことになっている妹も、同じような式服で、写場へ乗りこんだものだった。姉妹の左右に母と嫂《あによめ》とが並んで腰かけ、背の高い兄と低い庸三が後ろに立った。――庸三は二度とここへ来ることもないような気がした。
 瑠美子をつれて葉子の乗っている汽車が着いた時、庸三は長男と
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