葉子にもすっかり文壇との交遊を絶ってもらいたいというのが、かねての彼の申出《もうしい》でらしかったが、葉子は文壇に乗り出す手段としてこそ、そうしたペトロンも必要だったが、そこまで附いて行けるかどうかは彼女自身にも解っていなかった。
 間もなく葉子が帰って来た。
「綺麗《きれい》な男じゃないか。」
「そう思う?」
 葉子は微笑した。
 その時分彼女はまだすっかり宿を引き払っていなかったので、秋本に逢《あ》ったのは、今日が初めかどうかは解《わか》らなかったし、玄関口で二人で何か話していたことも知っていたが、晴々しい顔をして傍《そば》へ返って来た葉子を見ると、多少の陰影があるにしても、それは単に歌のことで指導を受けている間柄のようにしか見えなかった。
 その時分庸三の周囲が少しざわついていた。新聞にも二人の噂《うわさ》が出ていて、時とすると匿名《とくめい》の葉書が飛びこんだり、署名して抗議を申しこんで来たものもあって、そのたびに庸三は気持を暗くしたり、神経質になったりするのだが、葉子はそろそろ耳や目に入って来るそれらの非難を遮《さえ》ぎるように、いつも彼を宥《なだ》め宥めした。家庭の雰囲気《ふんいき》が嶮《けわ》しくなって来ると、すごすご宿へ引き揚げて行くこともあったし、彼女自身が嶮悪になって、ふいと飛び出して行くこともあった。庸三は何かはらはらするような気持になることもあったが、葉子はその後で手紙を少女にもたせて、彼を宿に呼び寄せたり、興味的に追いかけて行く子供と一緒に、夜更《よふ》けの町をいつまでも歩いていることもあった。
 ある日彼女はどこからか金が入ったとみえて――彼女は母からの月々の仕送りのように言っていた――何かこてこて買いものをしたついでに、美事なグラジオラスの一|鉢《はち》を、通りの花屋から買って来て、庸三を顰蹙《ひんしゅく》せしめたものだが、お節句にはデパアトから幾箇《いくつ》かの人形を買って来て、子供の雛壇《ひなだん》を賑《にぎ》わせたり、時とすると映画を見せに子供を四人も引っ張り出して、帰りに何か食べて来たりするので、庸三はある日彼女の部屋を訪れて、彼女にお小遣《こづかい》を贈ろうとした。
「先生のお金――芸術家のお金なんて私とても戴《いただ》けませんわ。私そんなつもりで、先生んとこへ伺っているんじゃないのよ。どうぞそんな御心配なさらないで。」
 彼
前へ 次へ
全218ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング