がないものですから、私早く切り揚げようと思って、つい……。」
「君|風呂《ふろ》があったら入ってくれない?」
「ええ、入って来るわ。」
 葉子は追い立てられるように下へおりて行った。

      四

 ある時庸三が庭へ降りて、そろそろ青みがかって来た叡山苔《えいざんごけ》を殖《ふ》やすために、シャベルをもって砂を配合した土に、それを植えつけていると、葉子は黝《くろ》ずんだ碧《あお》と紫の鱗型《うろこがた》の銘仙《めいせん》の不断着にいつもの横縞《よこじま》の羽織を着て、大きな樹《き》一杯に咲きみちた白|木蓮《もくれん》の花影で二三日にわかに明るくなった縁側にいた。葉子が松川と一緒に子供をつれて、嵩高《かさだか》な原稿を持ち込んで来たのが、ちょうどこの木蓮の花盛りだったので、彼女はその季節が来ると、それを懐かしく思い出すものらしかったが、ちょうどその時、葉子に来客があって、それが郷里の代議士秋本であるというので、庸三はシャベルを棄《す》てて、縁側へ上がって来た。郷里の素封家である秋本は、トルストイやガンジーの崇拝者で、何か文学に関する著述もあったが、もともと歌人で、数ある葉子の歌をいつでも出版できるように整理してくれたのも彼であった。葉子はちょっと擽《くすぐ》ったい顔をして「ちょっと逢って下さる?」と云《い》うので、手を洗って上がろうとすると、秋本がもう部屋へ入って来た。秋本は貴族的な立派な風貌《ふうぼう》の持主で、葉子の郷里の人が大抵そうであるように、骨格に均齊《きんせい》があり手足が若い杉《すぎ》のようにすらりとしていた。紫檀《したん》の卓のまわりに二人は向き合って坐ったが、互いに探り合うような目をして、簡単な言葉を交したきりであった。庸三は葉子の旅宿で、○や丶のついたその歌集の草稿を見せられたこともあったし、土を讃美した彼の著述をも読んだのであったが、葉子が結婚の約束をしたのが、この男であるような、ないような感じで、しかし何か優越感に似たものをもって彼と対峙《たいじ》していたのであったが、しばらくすると秋本は葉子にそこまで送られて帰って行った。ずっと後になって、秋本はそのうち郷里の財産を整理すると、子供の分だけを適度に残して、そっくりそれを東京へ持って来て、郊外に土地を買い、農園の経営を仕事とすると同時にそこに葉子と楽しい愛の巣を営もうというので、そうなると
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