、ちょっと不愉快であった。証文があるにせよ、無いにせよ書こうと思えぱどんなことでも書ける、書きたくないと思えば書かない――そんなことは自分の意志次第で、証文が反故《ほご》も同然だという気持が職業心理の憂鬱といった不快な感じを与えた。仮定的にもせよ、当座の思いつきにもせよ、金で彼を縛ろうとしている彼女の気持も愛らしいものとは思えなかった。
しかし、ちょっとした弾《はず》みで、その瞬間の平和が破れると、二人はまた猿《さる》と犬のように争った。その果てに傍《そば》にいた瑠美子まで泣き出して、庸三に打ってかかって来た。
やがて庸三は机のうえに散らかったものを、折鞄《おりかばん》に仕舞いこんで、外へ飛びだすと雨のふるなかを近所の車宿まで草履《ぞうり》ばきのまま歩いて行った。
庸三は汽車のなかで、その時の頑《かたくな》な態度と、露骨な争闘とを思い出していたが、瑠美子を庸三から引きわけて胸に抱きしめながら、嘆いていた彼女の姿も目に浮かんだ。
「情熱の虫がこの体に巣喰《すく》っている!」
喧嘩《けんか》の果てに、葉子はそう言ってぽろぽろ涙を流しているのだった。
新興芸術、プロレタリヤ文学――そういった新らしい芸術運動の二つの異《ちが》った潮流が、澎湃《ほうはい》として文壇に漲《みなぎ》って来たなかに、庸三は満身に創痍《そうい》を受けながら、何かひそかにむずむずするようなものを感じていた。今まで受け容《い》れにくかった外国の作品などが、この年になっていくらか気持に融《と》けこんで来るようなものもあれば、貧弱な自分一人のカで創作することの愚かしさに、思い到《いた》らないわけに行かなかった。時とすると生涯の黄昏《たそがれ》がすでに迫って来て、このまま自滅するのではないかと思われもしたが、今においていくらかの取返しをつけるのに、まだ全く絶望というほどへたばってしまってはならないのだと思うこともあった。彼は若い時分とはまた違った興味と理解とで、それらの作品に対していた。
するとある日の午後、西日の這《は》い寄る机の前にすわっている彼の目の前に、久しく見なかった葉子の瀟洒《しょうしゃ》な洋装姿がいきなり現われた。襟《えり》のところに涼しげな白いレイスのついた愛らしい服装が、彼女の体をいくらか小《ち》いさく見せていたが、窶《やつ》れも顔に見えていた。
「先生。」
いくらか臆《おく
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