のことに関する限り、作品には書かないという誓いで、もし少しでもそれを書いた場合には、賠償金大枚千円なりを異議なく支払うべきものなりという、子供|瞞《だま》しのような証書であった。
庸三は言わるるままに、それを原稿紙に無造作に書いた。
「これでいいね。」
「どうもありがとう。」
葉子はそれでいくらか安心したように、今まで悲痛な色をうかべていた顔に微笑の影が上って、証書を畳んでハンドバッグの中に仕舞いこんだものだったが、いつ何時《なんどき》どういうことを書かれるか解《わか》らないという不安が全く除かれたわけでもなかった。あの記事以来葉子の目に映るものは二重にも三重にも働き出して来る彼の性格であった。彼は悪党だとは思えないにしても、安心すべき善人でもなかった。こんな盲目的な情熱が、この男にあったのかと驚かれもし、今となってはある場合むしろそれが迷惑でもあり、彼女の身のうえの思い設けぬ不幸でさえもあると思わるるほど溺愛《できあい》している恋慕の底に、何かしらいつも遊戯とかまたは冷たい批判とかいうものとは異《ちが》った作家気質というようなもので、押し隠されていることを、彼女は感じ出していた。庸三は恋愛にかけては、まるで何のトリックも理性もない凡夫にすぎないのであったが、一度ならず二度ならず手許《てもと》へ引き寄せてみようとする執拗《しつよう》さには、かかる体験の副産物をも計算に入れていないわけではなかった。現実にいつも美しい薄もののベイルをかけて見ている葉子の目には、自身の幻影が、いつも反射的に、自身に対するあらゆる異性の目が、憧憬《しょうけい》と讃美に燃えているように見えた。今まで窮屈な家庭に閉じこもって、丸髷《まるまげ》姿の旧《ふる》い型の一人の女性しか知らず、センセイショナルな世間の恋愛事件をも冷やかに看過して来た不幸な一人の老作家を、浮気な悪戯心《いたずらごころ》にせよ打算にせよ、またはいくらかの純情があったにせよ、とにかくその冷たそうにみえる一と皮を※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2−78−12、281−下−10]《む》しり取って、情熱の火を燃やしたてたということだけでも、葉子は擽《くすぐ》ったい得意をひそかに感じていたのであったが、それがかえって逆作用を呈して自身に仇《あだ》をなす結果となったことは、何としても心外であった。
庸三も証文を取られたことは
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