こんなこと言うのよ。世間の噂《うわさ》も煩《うるさ》いし、牛込の家を売るたって、今すぐというわけにもいかないから、人目にふれない処《ところ》に当分隠れていろというの。それにちょうどいいところがある。沼津とかの町|端《はず》れの高台の方に、懇意な古い宿屋とか別荘とかがあるから、そこへ行っていろと言うの。」
「二人で?」
「ううむ、私一人でよ。」
「引き分けるつもりなのか。」
「そうでもないらしいんだけれど、後から黒須さんが行くから、とにかく先きへ行っていろというの。何でも大分|田舎《いなか》らしいのよ。その時は私もその気になったんだけれど、黒須さんと園田さんに送られて駅へ来てから考えたの。行ったものか止したものかと。でも黒須さんが切符を買ってくれたものだから、まさか乗らないわけにも行かないでしょう。仕方なし乗ったは乗ったけれど、何だか気が進まないの。それでふと止す気になって、次ぎの駅でおりてしまったの。そこへちょうど上りが来たものだからそれに乗ってここへ来てしまったの。」
 誰にも馴《な》れやすくて愛嬌《あいきょう》の好い葉子ではあったが、それだけにまた異性に対して用心深いことは、庸三もかねがね分かっていた。彼はその男の風貌《ふうぼう》や人柄を想像してみて、通俗小説にでもありそうな一つの色っぽい出来事と場面を描いてみたりしていた。
「それでここへ着いてから、私電話で黒須さんと話してみたのよ。そしてこの私たちの問題を、はっきり取り決めるために、一度先生に逢《あ》ってもらいたいと言ったの。――御免なさい、お断わりしないで、先生を引っ張り出したり何かして。でもそうするよりほかなかったの。お願いですから、黒須さんにお逢いになってね。」
 そういうことには、至ってあやふやの庸三ではあったが、娘の縁談を取りきめるというほどのことでもなかったし、一応先方の話を聴くくらいのことなら引き受けてもいいのではないかと思った。
「逢ってみてもいいね。こっちから行くのか、それともどこか会見の場所でも決めてあるんだったら……。」
「あの人がここへ来ることになっているのよ。それも明日のお昼ごろということにしたの。あの人、ほんとうに先生と手が切れているかどうか、それも心配らしいんだわ。なおさら先生に逢っていただく必要があるわけなのよ。」
「つまり君がその男に見込まれたというわけなんだね。」
「それも
前へ 次へ
全218ページ中151ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング