生《めば》えないわけに行かなかった。
 すると金をハンド・バッグに仕舞って、あれほど悦《よろこ》んで飛んで帰って行った葉子が、間三日もおかないうちに、近所の例の安栄旅館から電話をかけて来た。
 まだ宵《よい》のことで、彼は殺風景な応接室で、子供と一緒にお茶を呑《の》みながらレコオドを聴《き》いていたが、そうした家庭人になってみると、母のない子供の日常にも、何かはかない感じがまざまざ感じられて来て、楽しい気持にもなれないのであった。
 庸三は自分への電話だときいて、門を出ていつも取り次いでくれている下宿屋の電話室へ入って行った。多分小夜子が花でも引こうというのだろうと思って、受話機を取ってみると思いがけなくそれが葉子の声なのに驚いた。
「ああ、先生。私よ。」
「どうしたんだ。どこにいるんだい。」
「安栄旅館よ。先生にお話ししたいことがあって、今出て来たばかりよ。御飯食べながら聴いていただこうと思って。」
「何だろう。」
「来てよ。すぐよ。」
 庸三は懲りずまに、また葉子に逢いに行った。

 葉子は前二階の部屋にいた。スウト・ケイスやハンドバッグが床の間にあって、旅行からでも帰って来たようなふうで、髪も化粧も崩れていた。
「どうもすみません、お呼び立てして……。」
 彼女は金屏風《きんびょうぶ》のところにあった座蒲団《ざぶとん》をすすめたりした。
「スウト・ケイスどうしたの。旅行?」
「そのつもりでしたのよ。私たちを保護してくれることになっている、園田の従兄《いとこ》の黒須さんね。あの人がどうも不安なのよ。」
「どう不安なのさ。」
「あの人が私に色気をもつからいけないのよ。」
 なるほど! と庸三は思った。
「それにあの人こわいのよ。もと外務畑の人だそうだけれど、今は院外団か何かでしょうか、乾分《こぶん》も多勢《おおぜい》あるらしいの。別に悪い人でも乱暴な男でもなさそうだけれど、ちょっと気のおけないところがあるのよ。男前も立派だし、年も若いわ。奥さんもインテリでいい人なんだけれど、どうもあの人、私に対する態度が変なのよ。この間も縁側で園田の膚垢《ふけ》を取ってやっていると、あの人が傍《そば》へ来て、冷やかし半分|厭味《いやみ》を言ったりするの。」
「そんなこと気にすることないじゃないか。」
「それあそうだけれど……。」
 葉子は少し顔を紅《あか》らめて、
「だけどあの人
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