き返すことができなかった。支度《したく》しに宿へ帰った彼女に約束した時間どおりに、定めのプラットホオムへ行ってみると、葉子の姿が見えないので、彼は淡い失望を感じながらしばらく待ってみた。十分ばかり経《た》った。彼は外へ出て公衆電話をかけてみた。女中が出て来たが、葉子を出すように頼むと、三四分たってからようやくのことで彼女が出て来た。いつでも私が入用な時にと言い言いした彼女の意味と思い合わせて、今の場合事によると一色がやって来でもしたのか、それとも薬が利きすぎたのに恐れを抱《いだ》いて当惑しているのか、いずれにしてもそこは庸三に思案の余地が十分あるはずなのに、仮装の登場人物はすでに引込みがつかなかった。間もなく新調の外套《がいとう》を着た葉子がせかせかとプラットホオムへ降りて来た。
「すみません。随分お待ちになったでしょう。」
彼女は電話のかかった時、あいにくトイレットにいたのだと弁解したのだったが、そこへがら空《あ》きの電車が入って来たので、急いで飛び乗った。
電車をおりると、駅から自動車で町の高台のあるコッテイジ風のホテルへ着いたが、部屋があるかないかを聞いている庸三が、合図をするまで出て来なかったことも、ちょっと気がかりであったが、洋館の長い廊下を右に折れて少し行くと、そこから石段をおりて、暗い庭の飛石伝いに、ボオイの案内で縁側から日本間へ上がって、やっと落ち着いたのは、二階の八畳であった。寒さを恐れる彼に、ボオイは電気ヒイタアのスウィッチを捻《ひね》ってくれた。そして風呂《ふろ》で温まってから、大きな紫檀《したん》の卓に向かって、一杯だけ取った葡萄酒《ぶどうしゅ》のコップに唇《くちびる》をつけるころには、葉子の顔も次第に幸福そうに輝いて、鉄道の敷けない前、廻船問屋《かいせんどんや》で栄えていた故郷の家の屋造りや、庸三の故郷を聯想《れんそう》させるような雪のしんしんと降りつもる冬の静かな夜深《よふけ》の浪《なみ》の音や、世界の果てかとおもう北の荒海に、幻のような灰色の鴎《かもめ》が飛んで、暗鬱《あんうつ》な空に日の目を見ない長い冬のあいだの楽しい炬燵《こたつ》の団欒《だんらん》や――ちょっとした部屋の模様や庭のたたずまいにも、何か神秘めいた陰影を塗り立てて、そんなことを話すのであった。
夜が更《ふ》けて来た。やがて障子がしらしらと白むころに、二人は腐ったよ
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