すぐ》ったいようなその言葉も、大して彼の耳には立たなかった。
「時々来て家を見てくれるくらいは結構です。それ以外のことはいずれゆっくり考えましょう。」
茶の間で子供たちとしばらく遊んでから、葉子は帰って行った。
三
郊外のホテルのある一夜――その物狂わしい場面を思い出す前に、庸三はある日映画好きの彼女に誘われて、ちょうどその日は雨あがりだったので、高下駄《たかげた》を穿《は》いて浅草へ行く時、電車通りまでの間を、背の高い彼女と並んで歩くのも気がひけて「僕は自動車には乗りませんから」と断わって電車に乗ってからも、葉子が釣革《つりかわ》に垂れ下がりながら先生々々と口癖のように言って何かと話しかけるのに辟易《へきえき》したことだの、映画を見ているあいだ、そっと外套《がいとう》の袖《そで》の下をくぐって来る彼女の手に触れたときの狼狽《ろうばい》だの、ある日ふらりと彼女の部屋を訪ねると、真中に延びた寝床のなかに、熱っぽい顔をした彼女がいて、少し離れて坐った庸三が、今にも起き出すかと待っていると、彼女は赤い毛の肌着だけで、起きるにも起きられないことがやっと解《わか》って照れているうちに、畳のうえに延べられた手に顔をもって行くと、彼女は微声《こごえ》で耳元に「行くところまで……」とか何とか言ったのであったが、彼はそういうふうにして悪戯《いたずら》半分に彼女に触れたくはなかったこと、一夜彼女が自分が果して世間でいうような悪い女かどうかの判断を求めるために、初めから不幸であった結婚生活の破滅に陥った事情や、実家からさえも見放されるようになった経緯《いきさつ》、それに最近の草葉との結婚の失敗などについて、哀訴的に話しながら、止め度もなく嗚咽《すすりな》いた後で、英国のある老政治家と少女との恋のロオマンスについて彼女特得の薔薇色《ばらいろ》の感傷と熱情とで、あたかもぽっと出の田舎ものの老爺に、若い娘がレヴュウをでも案内するようなあんばいで、長々と説明して聴《き》かしたことなどが思い合わされるのであったが、ある日の午後彼はふと原稿紙やペンやインキを折鞄《おりかばん》につめて、差し当たっての仕事を片着けるために、郊外のそのホテルへ出ようとして、ちょうど遊びに来ていた葉子を誘ってしまったのであった。
「ほんと? いいんですの?」葉子は念を押した。
そしてそうなると、彼は引
前へ
次へ
全218ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング