うに熟睡に陥《お》ちた。
時雨《しぐ》らんだような薄暗さのなかに、庸三は魂を噛《く》いちぎられたもののように、うっとりと火鉢《ひばち》をかかえて卓の前にいた。葉子はお昼少しすぎに床を離れて風呂へ入ると、次ぎの間の鏡台にすわって、髪や顔を直してから、ちょっと庸三の子供たちを見て来るといって、接吻《せっぷん》をも忘れずに裏木戸から幌《ほろ》がけの俥《くるま》で帰って行ったのであった。庸三は乾ききった心と衰えはてた肉体にはとても盛りきれないような青春を、今初めて感じたのだったが、そうしてぼんやり意識を失ったもののように、昨夜一夜のことを考えていると、今まで冬眠に入っていた情熱が一時に呼び覚《さ》まされて来るのを感じた――それに堪えきれない寂しさが、彼を悲痛な悶《もだ》えに追いこむのであった。――透《す》き徹《とお》るような皮膚をしたしなやかな彼女の手、赤い花片に似た薄い受け唇《くちびる》、黒ダイヤのような美しい目と長い睫毛《まつげ》、それに頬《ほお》から口元へかけての曲線の悩ましい媚《こび》、それらがすべて彼の干からびた血管に爛《ただ》れこむと同時に、若い彼女の魂がすっかり彼の心に喰《く》い入ってしまうのであった。庸三は不幸な長い自身の生涯を呪《のろ》いさえするのであった。
するうち部屋が薄暗くなって来た。電燈のスウィッチを捻《ひね》ろうとおもって、ふと目を挙げると球《たま》が紅《あか》い手巾《ハンケチ》に包まれてあった。瞬間庸三は心臓がどきりとした。やがて卓のうえに立ってそれを釈《と》いた。いつのまにそんなことをしたのか、少しも知らなかった。庸三は卓をおりてさもしそうに手巾を鼻でかいでみた。昨夜葉子はこの恋愛を、何か感激的な大したロオマンスへの彼の飛躍のように言うのだったが、そう言われても仕方がなかった。庸三は次第に彼女の帰って来るのが待遠しくなって来た。帰って来るかどうかもはっきりしなかった。彼は帰って来ないことを祈ったが、やはり苦しかった。するとその時ボオイが次の間の入口に現われて、
「梢《こずえ》さんからお電話です。」
「そう。」
庸三は頷《うなず》いて立ち上がった。
「先生ですの。何していらっしゃる。」
「君は。」
「私あれからお宅へ行って、子供さんたちと童謡なんか歌ってお相手していましたの。皆さんお元気よ。」
「今飯を食べようかと思っているんだけど、来
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