ょっと参った。彼から通帳を預かっていた庸太郎を責める気にもなれなかった。
 ベルが鳴り響いたので、父子は上と下とに別れた。
 その晩葉子を例の近所の旅館に残して、庸三は家へ帰ってみたが、庸太郎が用箪笥《ようだんす》の引出しに仕舞っておいたという残りの二百円を見に行ってみると、それももう無かった。金の代りに赤インキで何やら書きつけた紙片《かみきれ》が空《から》の封筒のなかに入っていた。
「いや、またやられた。」
 庸太郎は笑いながら紙片をもって来て庸三にも見せた。この金一時拝借します――赤い文字でそう書いてあった。
 ついこのごろ、上の学校の入学試験を受けるはずの庄治が、ちょうど葉子も傍《そば》にいる時、庸三の前へやって来て、今の時代にこの上の学問の無駄なことと、学校に何の興味もないこととを訴えて、庸三がいくら繰りかえし言い聴《き》かしてみても、主張を曲げようとしなかったその時の蒼白《あおじろ》い顔が、ふと庸三の目に浮かんで来た。

      十八

 ある宵《よい》も小夜子が遊びに来ていた。庸三の末の娘をつれて二人で浅草へ天勝《てんかつ》の魔術を見せに行った帰りに、上野で食事をしてからちょっと立ち寄ったのだったが、庸三は一般ジャアナリストの外からの排撃と、葉子の事件に関して長男の態度にも反感をもっていた二男の、家庭の内部からの火の手のあがり初めて来た叛逆《はんぎゃく》との十字砲火を浴びながら、彼の社会的信用に大抵|見透《みとお》しをつけながらも、新らしい方嚮《ほうこう》を見出《みいだ》しかねている葉子からも離れかねていた。
 ちょうどそのころ、彼はその海岸に住んでいるという、長男の同窓であるマルクス・ボオイの風貌《ふうぼう》をも、葉子のサルンでちょっと見る機会があった。宵のことであった。が、ホテルの撞球場《どうきゅうじょう》で遊んでいるその青年を、葉子は庸三と一緒に来ている長男の庸太郎に初めて紹介されて、その場ですぐ友達になってしまった。そしてホテルを出てから、家《うち》へ引っ張って来たのであった。鼻の隆《たか》い、色白の、上脊《うわぜい》のあるその青年は、例の電球二つを女の乳房《ちぶさ》のようにつけた仏蘭西製《フランスせい》のスタンドの、憂鬱な色をしたシェドの蔭《かげ》に、俛《うつむ》き加減に腰かけていたものだったが、奥の座敷にいた庸三は、葉子がその青年をつれて
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