すか。」
「私ですの? 私母からもらう財産がいくらかございますの。先生のお宅にいることになれば、着物や何かも仕送ってくれますの。今度来る時、母にもその話をしましたの。無論母も同意ですの。」
「さあ。何しろ僕は家内が死んで間もないことだし、ゆっくり考えてみましょう。そう軽率に決めるべきことでもないんですから。」
庸三も彼女も固くなってしまったところで、葉子を照れさせないために彼は蓄音機を聴《き》きに、裏にある子供の家へ案内した。地続きにあるその古家《ふるや》は、二つに仕切って一方には震災のとき避難して来て、そのままになっている弁護士T氏の家族が住まい、三間ばかりの一方に庸三の上の子供たちが寝起きしていた。庭を横截《よこぎ》って二人で上がって行くと、書棚《しょだな》や椅子《いす》や額や、雑書雑誌などの雑然と積み重ねられたなかで、子供の庸太郎が、喫茶台の上と下に積んであるレコオドのなかから、彼女に向きそうなチャイコフスキイのアンダンテカンタビレイをかけてくれた。音楽のわからない父にも、それがエルマンの絃《げん》であることくらい解《わか》ることは庸太郎も知っていた。葉子は足を崩し細長い片手を畳みに突いて、しめやかな旋律を聴いていたが、庸三はこういう場合いつも庸太郎を仲間に引き入れる癖をもっていた。次ぎにファラアのジュエルソング――それからシュウマンハインクのウェルケニヒというふうに択《えら》んだのであったが、庸三は庸太郎に恥ずかしいような気がしていたし、庸太郎は庸太郎で夜なかに葉子と二人で来た父に何の意味があるかも解らなかったし、葉子も若いもの同志親しい口を利きたいような気持を、妙に堅苦しい庸三の態度に気兼ねして、わざと慎しみぶかくしているので、あたかも三竦《さんすく》みといった形で照れてしまった。間もなく書斎へ引き揚げた。庸三は一枚あけて行った雨戸を締めながら、暗い空を覗《のぞ》いていたが、
「静かな晩ですね。もう帰ってお寝《やす》みなさい。」
「遅くまでお邪魔しまして。では先生もお寝みなさい。」
葉子はそう言って帰って行ったが、庸三は後で何だか好い気持がしなかった。自身が醜いせいか、男女に限らずとかく美貌《びぼう》に憧《あこが》れがちな彼なので、初めて松川と一対でやって来た時のブルジョア夫人らしい葉子や、小劇場で見た時の浴衣《ゆかた》がけの窶《やつ》れた彼女の姿――
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