ていたものであった。最近少し余裕が出来たので、音楽好きの子供にねだられて、やっとセロを一|梃《ちょう》買ってやった妻に、彼はあまり好い顔をしなかった。ラブレタアが投函《とうかん》されていたことを、何かのおりに感づいて、背広を着て銀座の喫茶店へなぞも入るらしい子供がいつの間にか父に叛逆的《はんぎゃくてき》な態度を示すのに神経を痛めている折なので彼はむき[#「むき」に傍点]になった。しかし加世子は怒りっぽい庸三を、子供に直面させることを怖《おそ》れて、いつも庸三を抑制した。今は父子のあいだの緩衝地帯も撤廃されたわけだった。日蔭もののように暮らして来た庸三の視界がにわかに開けていた。風呂《ふろ》へ入るとか、食膳《しょくぜん》に向かうとかいう場合に、どこにも妻の声も聞こえず、姿も見えないので、彼はふと片手が※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2−78−12、146−上−18]《も》げたような心細さを感ずるのだったが、一方また思いがけなく若い時分の自由を取り戻したような気持にもなれた。彼は再婚を堅く否定していたので、さっそく何か世話しようと気を揉《も》んでいる人の友情に、何の感じも起こらなかったが見知らぬ世間の女性を心ひそかに物色してもいた。女性の前に今まで膝《ひざ》も崩さなかった儀容と隔心とが、自然に撤廃されそうであった。
 葉子は下宿へ逢《あ》いに来る一色と対《つい》で二三度庸三の書斎に姿を現わしたが、ある晩到頭一人でやって来て机の前にいる彼に近づいた。
「私先生のところへ来て、家事のお助《す》けしたいと思うんですけどどう?」
 葉子は無造作に切り出した。庸三はその言葉が本当には耳へ入らなかった。
「あんたに家庭がやれますか。」
「私家庭が大好きなんですの。」
「それあ刺繍《ししゅう》や編物はお得意だろうが、僕の家庭と来たら…………。」
「あら、そんな! 私台所だってお料理だってできますの。子供さんのお相手だって。」
「そうかしら。」
 葉子は少し乗り出した。
「先生の今までの御家庭の型や何かは、そっくりそのまま少しも崩さずに、先生や子供さんのために、一生懸命働いてみたいんですのよ。それで先生の生きておいでになる間、お側にお仕えして、お亡くなりになったら、その時は子供さんたちの御迷惑にならないように、潔《いさぎよ》く身を退《ひ》きます。」
「貴女《あなた》はどうするんで
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