の。」
 庸三は頷いた。
「あの男、情熱家のようだね。」
「そうよ。私が部屋へ入ると、いきなり飛びついて天井まで抱きあげたりして……でもあの人何だか変なところがあるの。」
 葉子は顔を紅《あか》くして、俛《うつ》むいていた。
「今度どこで逢うのさ。」
「どこか水のあるところがいいようなことを、あの人も言っていたけれど……。」
 葉子は画家の草葉《そうよう》と恋に陥《お》ちて行ったとき、夜ふけての水のうえに軋《きし》む櫓《ろ》の音を耳にしながら、楽しい一夜を明かしたかつての思い出のふかい、柳橋あたりの洒落《しゃ》れたある家のことをよく口にしたものであったが、今度も多分その辺だろうかとも思われた。
「ちょっと見せてごらん。」
 庸三はそう言ってその文を取ってみたが、場所はそれと反対の河岸《かし》で、家の名も書いてあった。それに文句が古風に気障《きざ》で、「ようさままいる」としたのも感じがよくなかった。庸三は案に相違して、むしろ歯が浮くような厭味《いやみ》を感じた。
「一つそっとその家《うち》へ上がって見てやろうかな。」
 庸三は笑談《じょうだん》らしく言ってみた。
「ええ、来たってかまわないことよ。」葉子は平気らしく言って、やがて立ちあがった。
「何時ごろ帰る?」
「十時――遅くも十一時には帰って来るわ。」
 彼女は指切りをして降りて行った。
 庸三は空虚な心のやり場をどこに求めようかと考えるまでもなく、いつも行きつけの同じ大川ぞいの小夜子《さよこ》の家へタキシイを駆るのであった。するとちょうど交叉点《こうさてん》のあたりまで乗り出したところで、その辺を散歩している長男と平田青年とに見つかって、二人はいきなり車に寄りついて来た。
「どこへ行くんです。」
「ううん、ちょっと飯くいに……。」
 庸三は少し狼狽《ろうばい》気味で、「一緒に乗らない?」と言ってしまった。
 得たり賢しと二人は入って来たものだった。
 庸三は多勢《おおぜい》の子供のなかでも、幼少のころから長男を一番余計手にもかけて来たし、いろいろな場所へもつれて行った。珍らしい曲馬団が来たとか、世界的な鳥人が来たとか、曲芸に歌劇、時としてはまだ見せるのに早い歌舞伎劇《かぶきげき》をも見せた。ある年|向島《むこうじま》に水の出た時、貧民たちの窮状と、救護の現場を見せるつもりで、息のつまりそうな炎熱のなかを、暑苦しい
前へ 次へ
全218ページ中83ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング