びる》にも生彩がなかった。そういう時に限って、彼女はまた別の肉体に愛情を感ずると見えて、傍《はた》の目が一齊《いっせい》に舞台に集まっているなかで、その手が庸三にそっと触れて来るのであった。
鴈治郎の大晏寺は、庸三の好きなものの一つであった。役としての春藤某《しゅんとうなにがし》の悲痛な運命の下から、彼の大きな箇性《こせい》が、彼の大きな頭臚《あたま》のごとく、愉快ににゅうにゅう首を持ちあげて来るのが面白かった。
「ふふむ!」
と葉子も頬笑《ほほえ》みながら見惚《みと》れていた。
二番目の同じ人の忠兵衛《ちゅうべえ》はすぐ真上から見おろすと、筋ばった白い首のあたりは、皺《しわ》がまざまざ目立って、肩から背へかけての後ろ姿にも、争えない寂しさがあった。庸三は大阪で初めて見た花々しい彼の三十代以来の舞台姿を、長いあいだ見て来ただけに、舞台のうえの人気役者に刻んで行く時の流れの痕《あと》が、反射的に酷《ひど》く侘《わび》しいものに思われてならなかった。
それから中二日ほどおいて、ある夕方葉子の二階の部屋に二人いるところへ、女中のお八重が「今運転士さんが、これを持って来て、お迎えに来ました。」と言って、結び文《ぶみ》のようなものを、そっと葉子に手渡した。
葉子は麻布《あざぶ》のホテルで逢《あ》って来て以来、秋本のことをあまりよくは噂《うわさ》しなかった。彼の手が太く巌丈《がんじょう》なんでいやんなっちゃったとか、壁にかかっていた外套《がいとう》が、田舎《いなか》紳士丸出しだとか、いまだにトルストイやガンジイのことばかり口にして、田舎くさい文学青年の稚気を脱していないとか、ちょうどその翌晩に彼女はある新聞社の催しに係る講演などを頼まれ、ある婦人雑誌にも長編小説を書いていたりしていたところから、にわかに花々しい文壇へのスタアトを切り、新時代の女流作家としての存在と、光輝ある前途とが、すでに確実に予約されたような感じで、久しぶりで逢った秋本の気分が、何か時代おくれの土くさいものに思われてならなかった。
庸三は自分への気安めのように聴《き》き流していたが、いくらかは信じてもよいように思えた。
「今度もう一度逢いに行かしてね。わざわざ遠くから出て来ても、あの日は私も気が急《せ》いて、しみじみ話もできなかったもんで、どこか静かな処《ところ》で、一晩遊ぼうということになった
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