女は袖口のまくれた白い肱《ひぢ》をあげて、島田の髷《ま》をなでながら、うつとりした目をして天井を眺《なが》めてゐた。
「ほんとうに夢中になつて、君に通つてくるやうな若い男はないのか。」
「まあ無いわね。有つても長続きはしないのさ。」
「でも一度や二度商売気を離れて、恋をしたと云ふ経験はあるだらう。」
「それあ、そんな人は家《うち》にも偶《たま》にはあるのさ。それあ可笑《をか》しいのよ。七《しち》おき八おきして、終《しま》ひにその男のために年期を増すなんて逆上《のぼ》せ方をして、そのためにお客がすつかり落ちてしまつて、男にも棄てられてしまふつて言つた風なの。そんなのが江戸児に多いのよ。第一若いお客といへば、まあお店者《たなもの》か独身ものの勤め人なんだから、深くでもなれば、お互ひの身の破滅ときまつてゐるんですからね。それかといつて、貴方《あなた》のやうなお母さんの秘蔵息子を瞞《だま》せば尚《なほ》罪が深いでせう。先のある人を、学校でもしくじらせてごらんなさい、それこそ大変だわ。」
「だけれど、先きで熱情を以つてくれば為方《しかた》がないぢやないか。」
「熱情ですつて。それあ然《さ》ういふ
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