山松や、白百合の花の咲乱れた丘や、畑地ばかりであつた。そして思つたより早く、いつか町の垠《さかひ》へ出て来てゐるのに気がついた。
 海岸の松原蔭にある新しい宿屋の二階の一室《ひとま》に、やがて彼女は落着くことができた。そこからはそよ/\と風に漣《さゞなみ》をうつてゐる広い青田が一と目に見わたされ、松原の藁屋《わらや》の上から、紺碧《こんぺき》の色をたゝへた静かな海が、地平線を淡青黄色《うすあをぎいろ》の空との限界として、盛りあがつたやうに眺められた。真夏の日がきら/\と光り耀《かゞや》いてゐた。人間と人間との特殊な交渉より外には何物もない隘《せま》くて窮屈な小い部屋のなかに住みなれて来た彼女に取つては、際限《はてし》もない青空を仰ぐことすらが、限りない驚異でもあり喜悦でもあつたが、心ゆくまで胸を開いて、其等の自然に親しむことは迚《とて》も出来なかつた。
 海風に吹かれながら、昼飯を食べてから、二人はしばらく横になつて話してゐたが、するうちに疲れた頭脳《あたま》も体も融《と》けるやうな懈《だる》さをおぼえて、うと/\と快い眠に誘はれた。下の部屋で学生がやつてゐるハモニカの音などが、彼等の
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