成《なるべく》口を利かないことにしてゐるより外なかつた。
 裏の果樹園へつれ出されて、彼女は初めて吻《ほつ》とした。水蜜桃の実《な》るところを、彼女は初めて見た。野菜畑なども町で育つた彼女には不思議なものの一つであつた。茄子《なす》や胡瓜《きうり》に水をやつてゐる男が、彼女の姿を見て叮嚀にお辞儀をした。ダリヤが一杯咲いてゐた。藪蔭には南瓜《かぼちや》が蔓《つる》をはびこらせてゐた。朝霧が名残《なごり》なく吸取られて、太陽がかつかつと照してゐたが、風は涼しかつた。一夏|脚気《かつけ》の出たとき、朝早く外へ出て、跣足《はだし》でしつとりした土を踏んだことなどあつたが、いくら体が丈夫になつても、こんな処には迚《とて》も一生暮せさうもなかつた。彼は東京で暮すのだと言つてゐたが、他《ほか》の男の子がないところから見ると、つまりは此処に落着くのぢやないかと云ふ気がした。
 彼はそんな事については、少しも語らなかつた。
 やがて支度をして、二人は家を出たが、山路とはいつても、海岸に近いので、何処を見ても昨夜《ゆうべ》あれほどにも心ををのゝかせたやうな深い山は何処にも見えなかつた。蒼々《あを/\》した
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