お目にかゝるから此方へおつれ申せと言つたんだけれど、僕は今夜はもう遅いから明朝《あした》にしたら可いだらうと言つておいたよ。」
「さう、貴方のお妹さんもいらつしやるの。」
「妹は東京へ行つてゐて、今家にはゐないんだ。」彼は気の毒さうに言つて、「僕は母には、友人の姉さんで、海水浴へ来たついでにわざ/\訪ねてくれたんだと、さう言つて話したら、すつかり真《ま》に受けられて極りが悪かつた。」
「さう」と、女は寂《さび》しい微笑を浮べたが、やつぱり当《あて》にならないことを頼りにして来たのだと云ふ、淡い悔いを感じた。
 その晩は葡萄酒《ぶだうしゆ》などを飲んで、遅くまで話したが、それも取留めのない彼の感激から出る辞《ことば》ばかりで、期待したやうな実《み》のある話は少しもなかつた。

 明朝《あした》海岸の町の方へ出て行つたのは、お昼頃であつた。勿論|母屋《おもや》の方へつれて行かれて、二階の座敷も見せられたし、五十ばかりの母親にも紹介された。母は東京で世話になる人だといつて、彼が誇張して話したとみえて、素朴ではあるが、ひどく慇懃《いんぎん》に待遇《もてな》してくれるので、彼女は挨拶に困つて、可
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