がけてもゐた。
 海岸にちかい或町の停車場へおりたのは、暑い七月の日も既に沈んで、汐《しお》つぽい海風がそよ/\と吹き流れてゐる時分であつた。町には電気がついて、避暑客の浴衣姿《ゆかたすがた》が涼しげに見えた。
 男の家《うち》は、この海岸から一里ほど奥の里の方にあつた。彼女は三時間ばかりの汽車で疲れてもゐたし、町で宿を取つて、朝早く彼を訪《たづ》ねようと思つたが、宿はどこも一杯で、それに一人旅だと聞いて素気なく断わられたので、為方《しかた》なしいきなり訪ねることにした。
 俥《くるま》はやがて町端《まちはづれ》を離れて、暗い田舎道へ差懸《さしかゝ》つた。黝《くろ》い山の姿が月夜の空にそゝり立つて、海のやうに煙つた青田から、蛙が物凄く啼《な》きしきつてゐた。太鼓や三味の音色ばかり聞きなれてゐた彼女の耳には、人間以外の声がひどく恐しいもののやうに、神経を脅《おびや》かした。高い垣根を結《ゆは》へた農家がしばらく続いた。行水《ぎようずゐ》や蚊遣《かやり》の火をたいてゐるのが見えたり、牛の啼声《なきごゑ》が不意に垣根のなかに起つたりした。
 道が段々山里の方へ入つて行くと、四辺《あたり》が一
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