層|闃寂《ひつそり》して来て、石高《いしだか》な道を挽《ひ》き悩んでゐる人間さへが何《ど》んな心をもつてゐるか判らないやうに怕《おそ》れられた。灯の影もみえない藪影や、夜風にそよいでゐる崖際《がけぎは》の白百合《しらゆり》の花などが、殊《こと》にも彼女の心を悸《おび》えさせた。でも、彼の家を車夫までが知つてゐるのでいくらか心強かつた。
彼の屋敷は山寺のやうな大きな門構や黒い塀《へい》やに取囲まれて、白壁の土蔵と並んで、都会風に建てられた二階家であつたが、門の扉がぴつたり鎖《とざ》されて、内は人気《ひとけ》もないやうに闃寂《ひつそり》してゐた。それに石段の上にある門と住居《すまひ》との距離も可也遠かつたし、前には山川の流れが不断の音をたゝへて、門内の松の梢にも、夜風が汐の遠鳴のやうに騒《ざわ》めいてゐた。しかし生活《くらし》の豊かな此辺は人気《にんき》が好いとみえて、耳門《くゞり》を推《お》すと直ぐ中へ入ることができた。女はちよいと気が臆《おく》せて、其のまゝ其|俥《くるま》で引返へさうかと思案したが、四里も五里もの山奥へ来たやうな気がしてゐたので、引返す気にもなれなかつた。で、玄関の
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