てから、彼から一度手紙をもらつたきりで、こつちからは遠慮して……寧《むし》ろ相手になるのが大人気《おとなげ》ないやうな気もして、また別に書くやうな用事もなかつたので、いくらか気にかゝりながら返事を怠つてゐた。しかし其と同時に、余り自分を卑下しすぎたり、彼の心の確実さを疑ひすぎるやうな気がして、折角《せつかく》嚮《む》いて来た幸運を、取逃してしまつたやうな寂しさを感じた。取止めのない男の気持や言草《いひぐさ》が何だかふは/\してゐて、手頼《たより》ないやうにも思はれたが、真実《ほんとう》に自分を愛してくれてゐるのは、あの男より外にはないやうに思はれた。彼の好意を退《しりぞ》けたのが、生涯の失策だと云ふ気がした。そして其の考へが段々彼女の頭脳《あたま》に希望と力を与へてくると同時に、彼の周囲や生活を分明《はつきり》見定めたいと云ふ望みが湧いて来た。慈愛の深い彼の老いた母親や、愛らしい彼の弟が世にも懐かしいもののやうにさへ思はれた。
或日の午後、彼女は私《そつ》と新造《しんぞ》に其事を話して、廓《くるわ》を脱け出ると土産物を少し調《とゝの》へて、両国から汽車に乗つた。近頃彼女は、内所の上さ
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