《あが》つてくる若いお店者《たなもの》などを見ると、つい厭な気がして、弟の境涯《きやうがい》を思ひやつた。そんな事が妙に心に喰入つてゐたので、自分の境涯に酔ふと云ふやうな事は困難であつた。彼女は所在のない心寂しいをりなどには、針仕事を持出して、襦袢《じゆばん》や何かを縫つたり又は引釈《ひきと》きものなどをして単調な重苦しい時間を消すのであつたが、然うしてゐると牢獄のやうな檻《をり》のなかにゐる遣瀬《やるせ》なさを忘れて、むかし多勢の友達と裁盤《たちばん》に坐つてゐたときのやうなしをらしい自分の姿に還つて、涙ぐましい懐《なつ》かしさを感ずるのであつた。しかし客によつては、色気ぬきに女を面白く遊ばせて、陽気に飲んで騒いで引揚げて行く遊び上手もあつて、そんな座敷では彼女も自然に心が燥《はしや》いで、萎《な》えた気分が生き生きして来た。しかし体の自由になる時が近づいて来ると、うか/\過した五六年の月日が今更に懐かしいやうで、世のなかへ放たれて行かなければならぬのが、反《かへ》つて不安でならなかつた。どこを見ても、耀《かゞや》かしい幸運が自分を待つてゐてくれさうには見えなかつた。
大学生と別れ
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