お目にかゝるから此方へおつれ申せと言つたんだけれど、僕は今夜はもう遅いから明朝《あした》にしたら可いだらうと言つておいたよ。」
「さう、貴方のお妹さんもいらつしやるの。」
「妹は東京へ行つてゐて、今家にはゐないんだ。」彼は気の毒さうに言つて、「僕は母には、友人の姉さんで、海水浴へ来たついでにわざ/\訪ねてくれたんだと、さう言つて話したら、すつかり真《ま》に受けられて極りが悪かつた。」
「さう」と、女は寂《さび》しい微笑を浮べたが、やつぱり当《あて》にならないことを頼りにして来たのだと云ふ、淡い悔いを感じた。
その晩は葡萄酒《ぶだうしゆ》などを飲んで、遅くまで話したが、それも取留めのない彼の感激から出る辞《ことば》ばかりで、期待したやうな実《み》のある話は少しもなかつた。
明朝《あした》海岸の町の方へ出て行つたのは、お昼頃であつた。勿論|母屋《おもや》の方へつれて行かれて、二階の座敷も見せられたし、五十ばかりの母親にも紹介された。母は東京で世話になる人だといつて、彼が誇張して話したとみえて、素朴ではあるが、ひどく慇懃《いんぎん》に待遇《もてな》してくれるので、彼女は挨拶に困つて、可成《なるべく》口を利かないことにしてゐるより外なかつた。
裏の果樹園へつれ出されて、彼女は初めて吻《ほつ》とした。水蜜桃の実《な》るところを、彼女は初めて見た。野菜畑なども町で育つた彼女には不思議なものの一つであつた。茄子《なす》や胡瓜《きうり》に水をやつてゐる男が、彼女の姿を見て叮嚀にお辞儀をした。ダリヤが一杯咲いてゐた。藪蔭には南瓜《かぼちや》が蔓《つる》をはびこらせてゐた。朝霧が名残《なごり》なく吸取られて、太陽がかつかつと照してゐたが、風は涼しかつた。一夏|脚気《かつけ》の出たとき、朝早く外へ出て、跣足《はだし》でしつとりした土を踏んだことなどあつたが、いくら体が丈夫になつても、こんな処には迚《とて》も一生暮せさうもなかつた。彼は東京で暮すのだと言つてゐたが、他《ほか》の男の子がないところから見ると、つまりは此処に落着くのぢやないかと云ふ気がした。
彼はそんな事については、少しも語らなかつた。
やがて支度をして、二人は家を出たが、山路とはいつても、海岸に近いので、何処を見ても昨夜《ゆうべ》あれほどにも心ををのゝかせたやうな深い山は何処にも見えなかつた。蒼々《あを/\》した
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