或売笑婦の話
徳田秋聲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)行方《ゆくへ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)幾分|脅《おど》かし気味で

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「兀にょう+王」、第3水準1−47−62]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おど/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 この話を残して行つた男は、今どこにゐるか行方《ゆくへ》もしれない。しる必要もない。彼は正直な職人であつたが、成績の好《よ》い上等兵として兵営生活から解放されて後、町の料理屋から、或は遊廓から時に附馬《つけうま》を引いて来たりした。これは早朝、そんな場合の金を少しばかり持つて行つた或日の晩、縁日の植木などをもつて来て、勝手の方で東京の職人らしい感傷的な気分で話した一売笑婦の身の上である。

 その頃その女は、すつかり年期を勤めあげて、どこへ行かうと自由の体であつたが、田舎の家は母がちがふのに、父がもうゐなくなつてゐたし、多くの客の中でどこへ落着かうといふ当もなかつたので……勿論西の方の産れで、可也《かなり》な締りやであつたから、倉敷を出して質屋へあづけてある衣類なども少くなかつたし、今少し稼ぎためようと云ふ気もあつたので、楼主と特別の約束で、いつも二三枚目どころで相変らず気に向いたやうな客を取つてゐた。
 その客のなかに、或私立大学の学生が一人あつた。彼は揉《も》みあげを短く刈つて、女の羨《うらやま》しがるほどの、癖のない、たつぷりした長い髪を、いつも油で後ろへ撫であげ、いかに田舎《ゐなか》の家がゆつたりした財産家で、また如何《いか》に母親が深い慈愛を彼にもつてゐるかと云ふことを語つてゐるやうな、贅沢《ぜいたく》でも華美でもないが、どこか奥ゆかしい風をしてゐた。勿論年は彼女より一つ二つ少いと云ふに過ぎなかつたが、各階級の数限りない男に接して来た彼女の目から見れば、それはいかにも乳くさい、坊つちやん/\した幼ない青年に過ぎなかつた。
 初めて来たのは、花時分であつた。どこか花見の帰りにでも気粉《きまぐ》れに舞込んだものらしく、二人ばかりの友達と一緒に上つて来たのであつたが、
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