山松や、白百合の花の咲乱れた丘や、畑地ばかりであつた。そして思つたより早く、いつか町の垠《さかひ》へ出て来てゐるのに気がついた。
海岸の松原蔭にある新しい宿屋の二階の一室《ひとま》に、やがて彼女は落着くことができた。そこからはそよ/\と風に漣《さゞなみ》をうつてゐる広い青田が一と目に見わたされ、松原の藁屋《わらや》の上から、紺碧《こんぺき》の色をたゝへた静かな海が、地平線を淡青黄色《うすあをぎいろ》の空との限界として、盛りあがつたやうに眺められた。真夏の日がきら/\と光り耀《かゞや》いてゐた。人間と人間との特殊な交渉より外には何物もない隘《せま》くて窮屈な小い部屋のなかに住みなれて来た彼女に取つては、際限《はてし》もない青空を仰ぐことすらが、限りない驚異でもあり喜悦でもあつたが、心ゆくまで胸を開いて、其等の自然に親しむことは迚《とて》も出来なかつた。
海風に吹かれながら、昼飯を食べてから、二人はしばらく横になつて話してゐたが、するうちに疲れた頭脳《あたま》も体も融《と》けるやうな懈《だる》さをおぼえて、うと/\と快い眠に誘はれた。下の部屋で学生がやつてゐるハモニカの音などが、彼等の夢心地をすやした。
四時頃に、二人は一緒に海岸へ出て見た。日は大分傾いてゐたが、風が出たので、海には波が少し荒れてゐた。焦《こ》げつくやうな砂を踏んで彼女は汀《みぎは》に立つて、ぼんやり波の戯れを見てゐたが、長く立つてゐられなかつた。目がくらくらして波と一緒に引込まれて行きさうであつた。海水衣に海水帽をかぶつた、女学生らしい女の群が、波に軽く体を浮かせながら、愉快さうに毬投《まりなげ》をやつてゐるのが彼女には不思議にも羨《うらや》ましくも思はれた。印度人のやうな黒い裸体が、そこにもこゝにも彼女の目を驚かした。
二人はやがて着物の脱ぎ場へ入つて、足を休めながら海気に吹かれてゐた。彼は彼女をかうした自由な自然の前へつれて来たことに、この上ない幸福を感じてゐるらしかつたが、彼女の頭脳《あたま》は其の感じを受容《うけい》れるには、余りに自分を失ひすぎてゐた。
するとその時、ぽうと云ふ空洞《うつろ》な汽笛《きてき》の音が響いて、いつの間にか汽船が一艘黒い煙を吐きながら、近くの沖へ来て碇泊《ていはく》してゐるのに気がついたが、間もなく漕ぎ寄つた一艘の端艇《はしけ》に、荷物や人を受取つて、陸《
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