にいろ》した新鮮な水蜜桃《すゐみつたう》が、盆の上に転つてゐた。
「しかし能く来てくれたね。まさか君が今頃来ようとは思はないもんだから、ふつと顔を見たときには、君の幽霊か、僕の目のせゐで幻《まぼろし》が映つたのかと思つて、慄然《ぞつ》としたよ。」
「さう。私はまた自分の気紛れで、飛んだところへ来たものだと思つて、何だか悲しくなつてしまつたの。夢でも見てゐるやうな気がしてならなかつたんですの。でも貴方《あなた》に会へて安心したわ。道がまた馬鹿に遠いんですもの、私厭になつちまつたわ。」
「夜だから然《そ》う云ふ気がしたのだよ。」
「貴方はこんな処にゐて、寂しかないの。」女はさう言つて四下《あたり》を見まはした。
「こゝが一番涼しいから。」彼はさう言ふうちも、どこかおど/\した調子で、時々|母屋《おもや》の方へ目をやつた。
「私こゝにゐても可いのでせうか。貴方の御母さんや御妹さんに御挨拶もしなければならないでせう。」女も不安さうに言つた。
「いや、いづれ明朝《あした》僕が紹介しよう。それに親父は浦賀の方の親類へ行つてゐるんだ。多分二三日は帰らないだらうと思ふ。当分ゐたつて可いんだらう。」
「さうね、御内所の方は幾日ゐたつて介意《かま》やしませんわ。私貴方のお手紙で、海へでも遊びにいかうと思つて、来たんですけれど……それには色々話したいこともあるにはあるんですの。でも私こゝにゐても可いの。」
「それあ可いんだけれど、何なら町の方で宿を取つてもいいと思ふね。」彼は女に安心を与へるやうに言つたが、何処においていゝかと惑《まど》つてゐる風であつた。
話が途切れたところで、彼女は持つて来た土産物を出して、「急に思ひついて来たんですから、何にももつて来なかつたのよ」とさう言つて、彼の前においた。
彼はたゞ大様《おほやう》に頷《うなづ》いたきりであつたが、やがて女の傍を離れて、母屋《おもや》の方へ行つた。
彼の家《うち》は農家ではあつたが、千葉の方から養子に来た父は、元が商人出であつたから、ちよい/\色々《いろん》なことに手を出してゐた。東京へも用達《ようた》しに始終往復してゐて、さう云ふ時の足溜りに、これまで女を下町の方に囲つておいたこともあつた。
大分たつてから、一人の女中がお茶や菓子を運んで来たが、間もなく彼も飛石づたひに此方《こつち》へやつて来た。
「母に話したら、是非
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