りになつてゐた。晴代は其の晩から肺炎になつてしまつた。
 しかし十九の時、死《しに》つぱぐれに逢《あ》つた、あの時のやうな重患でもなかつたので、風邪《かぜ》をひくと惹《ひ》き起し易《やす》い肺炎ではあつたが、一週間ばかり寝てゐると、悉皆《すつかり》好くなつてしまつた。気紛れなあの雪の日も思ひ出せないやうな麗《うらゝ》かな日、晴代はもう床を離れてゐたので、蔽《かぶ》さつた髪をあげ、風呂へも行つた。そして午後になつてから、今朝出て行くとき、木山が預けて行つた金を若竹へ環《かへ》しに行かうと思つて、静枝が病気見舞ひにわざ/\持つて来てくれた、ふじや[#「ふじや」に傍点]の菓子を抱へて、暫くぶりで外へ出て見た。若竹には晴代夫婦に善く懐《なつ》いてゐる子供があつた。
 金は五十円たらずで、一時友達に立て替へるために若竹のお神に時借りしたものが還つて来たといふのであつた。
「今日でなくても可いんだよ。」
 木山は言つてゐたが、使ひ込まれないうちに、返すものは返したいと思つた。
 雷門で電車をおりて、仲見世《なかみせ》の銀花堂で、下町好みの静枝に見舞ひのお返しになるやうなものを見繕《みつくろ》つてゐると、知つた顔の半玉が二人傍へ寄つて来て声かけた。
「昨夜《ゆうべ》兄いさんが来たわよ。」
 一人が言ふのであつた。
「兄いさんて誰れよ。」
「あら厭だ、お宅の兄いさんよ。」
「何処《どこ》で。」
「若竹だわ。」
 おしやまの子供は、呼ばれた四五人の姐《ねえ》さん達の名までしやべつた。
 晴代は落胆《がつかり》してしまつたが、遊ぶ金だけは能《よ》く拵《こしら》へるものだと感心した。
 兎に角若竹の勘定をすましてから、ブラジルコオヒの喫茶店へ入つて、ボックスの隅でレモネイドを呑みながら、暫らく考へこんでゐた。二十五の秋から今日まで、純情を瀝《そゝ》いで来た足掛四年の月日を何う取り返しやうもなかつた。
 晴代は今まであの世界にゐて、様々の人の身の行く末を見もし聴きもして来た。ハルビンあたりから骨になつて帰つて来るものもあれば、色も香も褪《あ》せはてて、人の台所を這《は》つてゐるものもあつた。何処へ何う埋もれて行つたか、影も形も見えなくなつた女も少くなかつた。
 帰りに晴代は実家《さと》へ寄つて、母に打ちあけて見た。
「あの男、何だか見込がないやうな気がするの。寧《いつ》そ別れてしまはうかと
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