も思ふけれど……。」
「晴ちやんがさう思ふなら、別れきりでなしに、当分別れてみるのも、却《かへ》つて緑さんのためかも知れないよ。」
 晴代は母の言葉に、淡い反感を感じたが、それを打消すことも出来なかつた。大体それに極められた。
「ちよつと帰つて見るわ。」
 晴代はさう言つて、一応木山の心持を聴いてみようと思つて帰つて見たが、日暮れになつても木山は帰つて来なかつた。
 遽《にはか》にトラックの響きがして、やがて前に止まつた。性急《せつかち》な父の声もした。晴代はぎよつとしたが、もう追つかなかつた。
「晴代、荷物|纏《まと》まつてるかい。」
 労働服に鳥打帽を冠つた父が、づか/\茶の間へ上つて来た。
「あの人まだ帰つて来ないのよ。」
「可いぢやないか。お前の物を持ち出すのに、木山に断《ことわ》ることもなからう。」
 父と運送屋とで、遽《には》かに荷造りが始まつた。ちやうど晴代が、半襟箱、三つ引き出し、三味線に稽古台のやうな、こま/\したものを纏めてゐるところへ、勝手口の方に人の影が差して、木山のヂャケツ姿が現はれたと思つたが、内を一と目見ると、其のまゝ引き返して行つた。
「緑さん!」
 父は追つかけるやうにして声かけたが、もう路次のうちには見えなかつた。
 五日七日のあひだ、それでも晴代は多分迎ひに来てくれるであらう木山を待つた。しかし木山は現はれなかつた。
「別れてやつてあの人も可かつたのだ。」晴代はさうも思つた。
 大分たつてから一度|薫《かをる》に勧められて、父や母に内密で、そつと旧《もと》の古巣へ行つて見た。そして勝手口から台所へあがつて見た。竹の皮や皿小鉢の散乱した食卓が投《はふ》り出されてあつた。床も埃《ほこり》でざら/\してゐた。茶の間へ入ると、壁にかゝつてゐる褞袍《どてら》がふと目についた。この冬晴代が縫つて着せたものであつた。
 出しなに路次口で、懇意にしてゐたお巡りさんの細君に出逢つてしまつた。
「奥さん本所の阿母《おつか》さんが御病気ださうで。余程お悪いんですか。」
 細君がきいた。
「えゝ、それ程でもないんですけれど……。」
 晴代は言葉を濁して、泣きたいやうな気持で路次を出た。木山の見え坊も可笑《をか》しかつたが、四年間の夢の棄て場が、是かと思ふと、矢張り来て見ない方が可かつたと思はれた。
[#地から1字上げ](昭和十二年三月)



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