のらもの
徳田秋声

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)月魄《つきしろ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)浅草|界隈《かいわい》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)しやぎり[#「しやぎり」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)じろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

     一

「月魄《つきしろ》」といふ関西の酒造家の出してゐるカフヱの入口へ来た時、晴代は今更らさうした慣れない職業戦線に立つことに、ちよつと気怯《きおく》れがした。その頃銀座には関西の思ひ切つて悪《あく》どい趣味の大規模のカフヱが幾つも進出してゐた。女給の中にはスタア級の映画女優にも劣らない花形女給も輩出してゐて、雑誌や新聞の娯楽面を賑《にぎ》はしてゐた。世界大戦後の好景気の余波と震災後の復興気分とが、暫《しば》し時代相応の享楽世界を醸《かも》し出してゐたが、晴代が銀座で働かうと思ひ立つた頃のカフヱは較《やゝ》下り坂だと言つた方がよかつた。足かけ四年の結婚生活が何うにも支へ切れなくなりさうになつたところで、辛《から》くも最後の一線に踏み止まらうとした晴代の気持にも既に世帯の苦労が沁みこんでゐた。
 狭い路次にある裏の入口に立つてみると、そこに細い二段の階段があり、階段の側にむせるやうな石炭や油の嗅気《にほひ》の漂《たゞよ》つたコック場のドアがあり、此方側の、だらしなく取散らかつた畳敷の女給溜りには、早出らしい女給の姿もみえて、その一人が立つて来て、じろ/\晴代の風体《ふうてい》を見ながら、二階の事務室へ案内してくれた。
 晴代は新らしい自身の職場を求めるのに、特にこの月魄を撰《えら》んだ訳《わけ》ではなかつた。震災で丸焼けになつて、それからずつと素人《しろうと》になつて母と二人で、前から関係のある兜町《かぶとちやう》の男から、時々支給を仰ぎながら細々暮らしてゐた古い商売友達の薫《かをる》が、浅草のカフヱに出てゐて、さういふ世界の空気もいくらか知つてゐたので、何《ど》うせ出るなら客筋のいい一流の店の方がチップの収入も好いだらうと思つて、今日思ひ切つて口を捜《さが》しに来たのだつた。しかし構へを見ただけで、ちよつと怯気《おぢけ》のつくやうな派手々々しい大カフヱも何う
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