《がまぐち》には、もう幾らの金もなかつた。ラヂオとか新聞とか、電燈|瓦斯《ガス》、薪炭などの小払ひは何うにかすましたのだつたが、明日は年始に来る客もあるので、その用意も必要であつた。彼女は曾つてのお座敷着や帯などにも、いくらか手がついてゐたが、それだけは極力防止してゐた。それを当てにしてゐた木山が不服さうに言ふので、晴代も木山の足腰のないことを責めて、つい夫婦喧嘩にまで爆発したのも最近のことであつた。
木山は口の利《き》き方《かた》の鉄火《てつくわ》になつて来る晴代に疳癪《かんしやく》を起して、いきなり手を振りあげた。
晴代は所詮《しよせん》駄目だといふ気がしたが、それも二人の大きな亀裂《ひゞ》であつた。
夜がふけるに従つて、晴代は心配になつて来た。自転車のベルの音がする度に、耳を聳《そばだて》てゐたが、除夜の鐘が鳴り出しても、木山は帰つて来なかつた。晴代はぢつとしてゐられなくなつた。そんな間にも、いつか木山が仲間が山へ行くのだと、ちやらつぽ[#「ちやらつぽ」に傍点]こを言つて、朝日靴などもつて出かけて行つたが、それを待合に忘れて来たものらしく、靴をおいて来た宿へ葉書を出す出すと言ひながら其れきりになつてしまつたが、考へてみると憎《にく》めないところもあつた。晴代は父のボオナスを当てにする訳ではなかつたけれど、長いあひだの犠牲を考へると、今夜のやうな場合、少しくらゐ用立ててもらつてもいゝと思つたので、戸締りをして家を出たが、途中で罪のない木山を思ひ出して、独《ひと》りで微笑《ほゝゑ》んでゐた。
「金さへあれば私達もさう不幸ではない筈《はず》なのに。」
あわたゞしい電車の吊皮に垂下《ぶらさが》りながら、晴代はつくづく思ふのだつた。それもさう大した慾望ではなかつた。月々の支払が満足に出来て、月に二三回|暢《のん》びりした気持で映画を見るとか、旅行するとか、その位の余裕があればそれで十分だつた。
錦糸町《きんしちやう》の家へあがると、戸がしまつて皆《みん》な寝てゐたが、母が起きてくれた。母は長火鉢の火を掻きたてて、
「何《ど》うしたんだよ、今頃……。」
父親も後ろ向きになつて傍に寝てゐた。
商売に出てゐる間、病身な妹も多かつたので、月々百円から百五十円くらゐは貢《みつ》ぎつゞけて来た晴代ではあつたが、たとひ十円でも金の無心は言ひ出しにくかつた。
晴代はくだ
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