/\したことは言ひたくなかつた。
「阿母《おつか》さん済まないけれど、二十円ばかり借りられないか知ら。」
 母は厭な顔をした。そして何かくど/\言訳しながら、漸《やつ》と半分だけ出してくれた。
 何か冷いものが脊筋を流れて、晴代はむつとしたが突き返せもしなかつた。
 木山は何うしたかと聞くので、晴代は耳に入れたくはなかつたが、隠さず話した。
「お前も呑気ぢやないかね。今は何時《いつ》だと思ふのだよ。」
 晴代も気が気でなかつたので、急いで帰つて見たが、やつぱり帰つてゐなかつた。晴代は頭脳《あたま》が変になりさうだつた。そして蟇口《がまぐち》の残りを二十円足して家賃の内金をしてから、三停留所もの先きまで行つて自動電話へ入つて、木山の母の引手茶屋へかけて見た。
「あれからずつと来ませんよ。」
 母は答へたが、その「あれから」も何時のことか解らなかつた。
「あの人にも困りますね。いくら何でももう元日の朝だといふのに、何処《どこ》をふらついてゐるんでせうね。」
 晴代は知り合ひの待合へもかけて見たが、お神と話してゐるうちに、てつきり[#「てつきり」に傍点]さうだと思ふ家に気がついた。そこは晴代も遊びに行つたことのある芸者屋だつたが、そこで始まる遊び事は、孰《どつち》かといへば素人の加はつてはならない半商売人筋のものであつた。お神と主人も加はる例だつたが、風向きが悪いとなると、疲れたからと言つて席をはづして、寺銭《てらせん》をあげることへかゝつて行くといふ風だつた。
 晴代は堪《たま》らないと思つたので、急いで円タクを飛ばした。皆んなにお煽《ひや》らかされて、札びら切つてゐる木山の顔が目に見えるやうだつた。
 自動車をおりてから、軒並み細つこい電燈の出てゐる、静かな町へ入つて来ると、結婚前後のことが遣瀬《やるせ》なく思ひ出せて来て仕方がなかつた。泣くにも泣かれないやうな気持だつた。
 目星をつけた家の気勢《けはひ》を暫く窺《うかゞ》つた後、格子戸を開けてみると、額の蒼白《あをじろ》い、眉毛《まゆげ》の濃い、目の大きい四十がらみのお神が長火鉢のところにゐて、ちよつと困惑した顔だつた。
「宅が来てゐません?」
 晴代は息をはずませてゐた。
「二階にゐますがね、晴《はあ》ちやんが来てもゐない積りにしてゐてくれと言はれてゐるのよ。」
「これでせう。」
 晴代は鼻の先きへ指をやつて、も
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