知らなかったんです」
「しかもお前達夫婦の籍は、お前の養家じゃなくて、亭主の家の方にあるんだから可怪《おか》しいよ」
最初は心にもかけなかったその籍のことを、二度も三度も鶴さんの口から聴されてから、お島は養家の人達の、作太郎を自分に押つけようとしていた真意が、漸《やっ》と朧《おぼろ》げに見えすいて来たように思えた。
「そうして見ると、あの人達は、そっくり私に迹《あと》を譲る気はなかったもんでしょうかね」お島は長いあいだ自分一人で極込《きめこ》んでいた、養家やその周囲に於ける自分の信用が、今になって根柢《こんてい》からぐらついて来たような失望を感じた。
お島は、最近の養家の人達の、自分に対するその時々の素振や言《ことば》に、それと思い当ることばかり、憶出《おもいだ》せて来た。
「畜生、今度往ったら、一捫着《ひともんちゃく》してやらなくちゃ承知しない」お島はそれを考えると、不人情な養母達の機嫌を取り取りして来た、自分の愚しさが腹立しかったが、それよりも鶴さんの目にみえて狎々《なれなれ》しくなった様子に、厭気のさして来ていることが可悔《くやし》かった。
二年の余《よ》も床についていた前《せん》の上《かみ》さんの生きているうちから、ちょいちょい逢っていた下谷《したや》の方の女と、鶴さんが時々|媾曳《あいびき》していることが、店のものの口吻《くちぶり》から、お島にも漸く感づけて来た。お島はそれらの店の者に、時々思いきった小遣《こづかい》をくれたり、食物を奢《おご》ったりした。彼等はどうかすると、鼻《はな》ッ張《ぱり》の強い女主人から頭ごなしに呶鳴《どな》りつけられて、ちりちりするような事があったが、思いがけない気前を見せられることも、希《めず》らしくなかった。
鶴さんの出ていった後から、自身で得意先を一循|巡《まわ》って見て来たりするお島は、時には鶴さんと二人で、夜おそく土産《みやげ》などを提げて、好い機嫌で帰って来た。
三十五
荒い夏の風にやけて、鶴さんが北海道の旅から帰って来たのは、それから二月半も経ってからであった。暑い盛りの八月も過ぎて、東京の空には、朝晩にもう秋めかした風が吹きはじめていた。
鶴さんの話によると、帰りの遅くなったのは、東北の方にあるその生れ故郷へ立寄って、年取った父親に逢ったり、旅でそこねた健康を回復するために、近くの温泉場へ湯治に行っていたりした為だというのであったが、それから程なく、鶴さんの留守の間《ま》に北海道から入って来た数通の手紙の一つが、旅で馴染《なじみ》になった女からであることが、その手紙の表記《うわがき》でお島にも容易《たやす》く感づけた。
帰ってからも、そっちこっち飛歩いていて、碌々《ろくろく》旅の話一つしんみり為《し》ようともしなかった鶴さんが、ある日帳簿などを調べたところによると、お島はお島だけで、留守中に可也《かなり》販路を拡めていることが解って来たが、それは率《おおむ》ね金払いのわるいような家ばかりであった。これまでに鶴さんが手をやいた質《たち》の悪い向《むき》も二三軒あったが、中にはまたお島が古くから知っている堅い屋敷などもあった。お島は少しでも手繋《てがかり》のあるようなそれ等の家から、食料品の註文を取ることが、留守中の毎日々々の仕事であったが、品物ばかり出て勘定の滞っているのが、其方《そっち》にも此方《こっち》にも発見せられた。
悪阻《つわり》などのために、夏中|動《やや》もするとお島は店へも顔を出さず、二階に床を敷いて、一日寝て暮すような日が多かったが、気分の好い時でも、その日その日の売揚《うりあげ》の勘定をしたり、店のものと一緒に、掛取に頭脳《あたま》を使ったりするのが煩《わずら》わしくなると、着飾って生家《さと》や植源へ遊びに出かけるか、昵《なじ》みの多い旧《もと》の養家の居周《いまわり》やその得意先へ上って話こむかして、時間を銷《け》さなければならなかった。養家では、作太郎が近所の長屋を一軒もらって、嫁と一緒に相変らず真黒になって働いていたが、お島はその方へも声をかけた。
「今度田舎の土産でもさげて、お島さんの婿さんの顔を見にいくだかな」作は帰りがけのお島に言ってにやにや笑っていた。
「まあそうやって、後生大事に働いてるが可《い》いや。私も危《あぶな》く瞞《だま》されるところだったよ。養母《おっか》さんたちは人がわるいからね」お島も棄白《すてぜりふ》でそこを出た。
三十六
暫《しばら》くぶりで、一日遊びに来た姉が、その日も朝から店をあけている鶴さんや、知りたくもない植源の嫁の噂《うわさ》などをして、一人で饒舌《しゃべ》りちらして帰って行った。
お島は気骨の折れる子持の客の帰ったあとで、気憊《きづか》れのした体を帳場格子《ちょうばごうし》にもたれて、ぼんやりしていた。お島の体は、単衣《ひとえ》もののこの頃では、夕方の涼みに表へ出るのも極《きまり》のわるいほど、月が重っていた。
旅から帰って来た鶴さんは、落着いて店で帳合をするような日とては、幾《ほと》んど一日もなかった。偶《たま》に家にいても、朝から二階へあがって、枕などを取出して、横になっているような事が多かった。機嫌のいい時には、これまで口にしたこともなかった、猥《みだ》らな端唄《はうた》の文句などを低声《こごえ》で謡《うた》って、一人で燥《はしゃ》いでいた。
「おお厭だ、誰にそんなものを教わって来ました」お島はぼつぼつ支度にかかっていた赤子の着物の片《きれ》などを弄《いじ》りながら、傍で擽《くすぐ》ったいような笑方《わらいかた》をした。
「面白くでもない。北海道の女のお自惚《のろけ》なんぞ言って」
「どうして、そんなんじゃない」と云いそうな顔をして、鶴さんは物珍しげに、形のできた小さい襦袢《じゅばん》などを眺めていた。
「ちょいと、貴方《あなた》はどんな子が産れると思います」お島は始終気にかかっている事を、鶴さんにも訊《き》いてみた。
「どうせ私《あっし》には肖《に》ていまい。そう思っていれあ確《たし》かだ」鶴さんは鼻で笑いながら、後向になった。
「どうせそうでしょうよ、これは私のお土産ですもの」お島は不快な気持に顔を赧《あから》めた。「でも笑談《じょうだん》にもそういわれると、厭なものね。子供が可哀そうのようで」
「此方《こっち》の身も可哀そうだ」
「それは色女に逢えないからでしょう」
二人の神経が段々|尖《とが》って来た。そしてお島に泣いて突かかられると、鶴さんはいきなり跳起《はねお》きて、家では滅多にあけたことのない折鞄をかかえて、外へ飛出してしまった。その折鞄のなかには、女の写真や手紙が一杯入っているのであった。
今もお島は、何の気なしに聞過していた姉の話が、一々深い意味をもって、気遣しく思浮べられて来た。姉の話では、鶴さんの始終抱えて歩いている鞄のなかの文《ふみ》が、時々植源の嫁の前などで、繰拡げられると云うのであった。
「それは可笑《おか》しいの」姉は一つはお島を煽《あお》るために、一つは鶴さんと仲のいい植源の嫁への嫉妬《しっと》のために、調子に乗って話した。
「その女というのが、美人の本場の越後から流れて来たとやらで、島ちゃんの旦那は碌素法《ろくすっぽう》工場へ顔出しもしないで、そこへばかり入浸《いりびた》っていたんだって。それで、その手紙にこんな事まで書いてあるんだってさ。これも東京の人で、彼方《あちら》へ往く度《たんび》に札びら切って、大尽風をふかしているお爺さんが、鉱山《やま》が売れたら、その女を落籍《ひか》して東京へつれていくといっているから、それを踏台にして、東京へ出ましょうかって。ねえ、ちょいとお安くないじゃないの」
姉は植源の嫁から聞いたと云うその女の噂を、こまごまと話して聞した。
「それに鶴さんは、着物や半衿《はんえり》や、香水なんか、ちょいちょい北海道《あちら》へ送るんだそうだよ。島ちゃん確《しっか》りしないと駄目だよ」姉はそうも言った。
「何《なあ》に」と思って、お島は聞いていたのであったが、女にどんな手があるか解らないような、恐怖《おそれ》と疑惧《ぎぐ》とを感じて来た。
三十七
植源の嫁のおゆうの部屋で、鶴さんと大喧嘩をした時のお島は、これまで遂《つい》ぞ見たこともないようなお盛装《めかし》をしていた。
お島が鶴さんに無断で、その取つけの呉服屋から、成金の令嬢か新造《しんぞ》の着る様な金目のものを取寄せて、思いきったけばけばしい身装《なり》をして、劈頭《のっけ》に姉を訪ねたとき、彼女は一調子かわったお島が、何を仕出来《しでか》すかと恐れの目を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、71−3]《みは》った。看《み》ればハイカラに仕立てたお島の頭髪《あたま》は、ぴかぴかする安宝石で輝き、指にも見なれぬ指環が光って、体に咽《むせ》ぶような香水の匂《におい》がしていた。
旅から帰ってからの鶴さんに、始終こってり作《づくり》の顔容《かおかたち》を見せることを怠らずにいたお島の鏡台には、何の考慮もなしに自暴《やけ》に費さるる化粧品の瓶《びん》が、不断に取出されてあった。夜《よる》臥床《ふしど》に就くときも、色々のもので塗りあげられた彼女の顔が、電気の灯影に凄《すご》いような厭な美しさを見せていた。
「大した身装《なり》じゃないか。商人の内儀《かみ》さんが、そんな事をしても可《い》いの」惜気もなくぬいてくれる、お島が持古しの指環や、櫛《くし》や手絡《てがら》のようなものを、この頃に二度も三度ももらっていた姉は、媚《こ》びるように、お島の顔を眺めていた。
「どうせ長持のしない身上《しんしょう》だもの。今のうち好きなことをしておいた方が、此方《こっち》の得さ。あの人だって、私に隠して勝手な真似《まね》をしているんじゃないか」
お島はその日も、外へ出ていった鶴さんの行先《ゆきさき》を、てっきり植源のおゆうの許《とこ》と目星をつけて、やって来たのであった。そして気味を悪がって姉の止めるのも肯《き》かずに、出ていった。
おどおどして入っていった植源の家の、丁度お八つ時分の茶《ちゃ》の室《ま》では、隠居や子息《むすこ》と一緒に、鶴さんもお茶を飲みながら話込んでいたが、お島が手土産の菓子の折を、裏の方に濯《すす》ぎものをしているおゆうに示《み》せて、そこで暫《しばら》く立話をしている間《ま》に、鶴さんも例の折鞄を持って、そこを立とうとしておゆうに声をかけに来た。
「まあ可《い》いじゃありませんか。お島さんの顔を見て直《じ》き立たなくたって。御一緒にお帰んなさいよ」
おゆうは愛相よく取做《とりな》した。
「自分に弱味があるからでしょう」お島は涙ぐんだ面《おもて》を背向《そむ》けた。
夫婦はそこで、二言三言言争った。
「私《あっし》も、島《これ》のいる前で、一つ皆さんに訊《き》いてもらいたいです」鶴さんは蒼《あお》くなって言った。
そしておゆうがお島をつれて、自分の部屋へ入ったとき、鶴さんもぶつぶつ言いながら、側へやって来た。
「孰《どっち》も孰《どっち》だけれど、鶴さんだって随分可哀そうよお島さん」終《しま》いにおゆうはお島に言かけたとき、お島は可悔《くやし》そうにぽろぽろ涙を流していた。
夫婦はそこで、撲《なぐ》ったり、武者振《むしゃぶり》ついたりした。
大分たってから、呼びにやった姉につれられて、お島はそこから姉の家へ還されていった。
三十八
姉の家へ引取られてからも、お島の口にはまだ鶴さんの悪口《あっこう》が絶えなかった。おゆうに庇護《かば》われている男の心が、歯痒《はがゆ》かったり、妬《ねた》ましく思われたりした。男を我有《わがもの》にしているようなおゆうの手から、男を取返さなければ、気がすまぬような不安を感じた。
お島は仕事から帰った姉の亭主が晩酌の膳《ぜん》に向っている傍で、姉と一緒に晩飯の箸《はし》を取っていたが、心は鶴さんとおゆうの側にあった。
「そうそう、こんな
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