ゃない。くれるくらいなら古着屋へ売っちまう」
左《と》に右《かく》二人は初めて揃《そろ》って、外へ出てみた。鶴さんは先へ立って、近所隣をさっさと小半町も歩いてから振顧《ふりかえ》ったが、お島はクレーム色のパラソルに面《おもて》を隠して、長襦袢《ながじゅばん》の裾《すそ》をひらひらさせながら、足早に追ついて来た。外は漸くぽかぽかする風に、軽く砂がたって、いつの間にか芽ぐんで来た柳条《やなぎのえだ》が、たおやかに※[#「※」は「車へん+而+大」、第3水準1−92−46、59−5]《しな》っていた。お島は何となく胸を唆《そそ》られるようで、今までとは全然《まるで》ちがった明い世間へ出て来たような歓喜を感じていたが、良人の心持がまだ底の底から汲取れぬような不安と哀愁とが、時々心を曇らせた。今まで人に恵んだり、助力を与えたりしたことは、養父母の非難を買ったほどであったが、矜《ほこり》と満足はあっても、心から愛しようと思おうとしたような人は、一人《いちにん》もなかった。真実《ほんと》に愛せられることも曽《かつ》てなかった。愛しようと思う鶴さんの心の奥には、まだおかねの亡霊が潜み蟠《わだか》まっているようであった。鶴さんは、それはそれとして大事に秘めておいて、自身の生活の単なる手助《てだすけ》として、自分を迎えたのでしかないように思えた。駢《なら》んで電車に乗ってからも、お島はそんなことを思っていた。
三十一
奉公人などに酷だというので、植源いこうか茨《ばら》脊負《しょ》うか、という語《ことば》と共に、界隈《かいわい》では古くから名前の響いたその植源は、お島の生家《さと》などとは違って、可也《かなり》派手な暮しをしていたが、今は有名な喧《やかま》し屋《や》の女隠居も年取ったので、家風はいくらか弛《ゆる》んでいた。お島は一二度ここへ来たことはあったが、奥へ入ってみるのは、今日が初めであった。
大秀の娘である嫁のおゆうが、鶴さんの口にはゆうちゃんと呼れて、小僧時代からの昵《なじ》みであることが、お島には何となし不快な感を与えたが、それもしみじみ顔を見るのは、初めてであった。
おゆうは、浮気ものだということを、お島は姉から聞いていたが、逢ってみると、芸事の稽古《けいこ》などをした故《せい》か、嫻《しとや》かな落着いた女で、生際《はえぎわ》の富士形になった額が狭く、切《きれ》の長い目が細くて、口もやや大きい方であったが、薄皮出の細やかな膚の、くっきりした色白で、小作《こづくり》な体の様子がいかにも好いと思った。いつも通るところとみえて、鶴さんは仕立物などを散《ちら》かしたその部屋へいきなり入っていこうとしたが、おゆうは今日は更《あらた》まったお客さまだから失礼だといって、座敷の床の前の方へ、お島のと並べてわざとらしく座蒲団《ざぶとん》をしいてくれた。
「そう急に他人行儀にしなくても可《い》いじゃありませんか」鶴さんは蒲団を少しずらかして坐った。
「いいじゃありませんか。もう極《きまり》のわりいお年でもないでしょう」おゆうは顔を赧《あから》めながら言って、二人を見比べた。
「貴女《あなた》ちっとは落着きなさいましてすか」おゆうはお島の方へも言《ことば》をかけた。
「何ですか、私はこういうがさつ[#「がさつ」に傍点]ものですから、叱《しか》られてばかりおりますの」お島は体《てい》よく遇《あしら》っていた。
「でもあの辺は可《よ》うございますのね、周囲《まわり》がお賑《にぎや》かで」おゆうはじろじろお島の髷の形などを見ながら自分の髪《あたま》へも手をやっていた。
性急《せっかち》の鶴さんは、蒲団の上にじっとしてはおらず、縁側へ出てみたり、隠居の方へいったりしていたが、おゆうも落着きなくそわそわして、時々鶴さんの傍へいって、燥《はしゃ》いだ笑声をたてていたりした。広い庭の方には、薔薇《ばら》の大きな鉢が、温室の手前の方に幾十となく並んでいた。植木棚のうえには、紅や紫の花をつけている西洋草花が取出されてあった。四阿屋《あずまや》の方には、遊覧の人の姿などが、働いている若い者に交ってちらほら見えていた。
「どうしよう、これからお前の家へまわっていると遅くなるが……」鶴さんは時計を見ながらお島に言った。「何なら一人でいっちゃどうだ」
「不可《いけ》ませんよ、そんなことは……」おゆうはいれ替えて来たお茶を注《つ》ぎながら言った。
それで鶴さんはまた一緒にそこを出ることになったが、お島は何だか張合がぬけていた。
三十二
日がそろそろかげり気味であったので、このうえ二三十町もある道を歩くことが、二人には何となし気懈《けだる》い仕事のように思えた。鶴さんは植源へ来るのが今日の目的で、お島の生家《さと》へ行ってみようと云う興味は、もうすっかり殺《そ》げてしまったもののように、途中で幾度となく引返しそうな様子を見せたが、お島も自分が全く嫌われていないまでも、鶴さんの気持が自分と二人ぎりの時よりも、おゆうの前に居る時の方が、[#底本では「、」が「。」、61−15]話しの調子がはずむようなので、古昵《ふるなじ》みのなかを見せつけにでも連れて来られたように思われて、腹立しかった。二人は初めほど睦《むつ》み合っては歩けなくなった。
「でも此処《ここ》まで来て寄らないといっちゃ、義理が悪いからね」
今度はお島が立寄るまいと言出したのを、鶴さんは何処か商人風の堅いところを見せて、すっかり気が変ったように言った。
「それ程にして戴かなくたって可《い》いんですよ。あの人達は、親だか子だか、私なぞ何とも思っていませんよ。生家《さと》は生家《さと》で、縁も由縁《ゆかり》もない家ですからね」お島はそう言いながら、従《つ》いて行った。
生家《さと》では母親がいるきりであった。母親はお島の前では、初めて来た婿にも、愛相《あいそ》らしい辞《ことば》をかけることもできぬ程、お互に神経が硬張《こわば》ったようであったが、鶴さんと二人きりになると、そんなでもなかった。お島は母親の口から、自分の悪口を言われるような気がして、ちょいちょい様子を見に来たが、鶴さんは植源にいた時とは全然《まるで》様子がかわって、自分が先代に取立てられるまでになって来た気苦労や、病身な妻を控えて商売に励んで来た長いあいだの身《み》の上談《うえばなし》などを、例の急々《せかせか》した調子で話していた。
「ここんとこで、一つ気をそろえて、みっちり稼がんことにゃ、この恢復《とりかえし》がつきません」
鶴さんは傍へ寄って来るお島に気もつかぬ様子であったが、お島には、それがすっかり母親の気に入って了ったらしく見えた。
「どうか店の方へも、時々お遊びにおいで下すって……」
鶴さんは語《ことば》のはずみで、そう言っていたが、お島は、何を言っているかと云うような気がして、終《しまい》に莫迦々々《ばかばか》しかった。それでけろりとした顔をして、外を見ていながら、時々帰りを促した。
「こう云う落着のない子ですから、お骨も折れましょうが、厳《やかま》しく仰《おっし》ゃって、どうか駆使《こきつか》ってやって下さい」母親はじろりとお島を見ながら言った。
鶴さんは感激したような調子で、弁《しゃべ》るだけのことを弁ると、煙管《きせる》を筒に収めて帰りかけた。
「何を言っていたんです」お島は外へ出ると、いらいらしそうに言った。「あの御母さんに、商売のことなんか解るものですか。人間は牛馬のように駆使《こきつか》いさえすれあ可《い》いものだと思っている人間だもの」
三十三
夏の暑い盛りになってから、鶴さんは或日急に思立ったように北海道の方へ旅立つことになった。気の早い鶴さんは、晩にそれを言出すと、もうその翌朝夜のあけるのも待かねる風で、着替を入れた袋と、手提鞄《てさげかばん》と膝懸《ひざかけ》と細捲《ほそまき》とを持って、停車場《ステーション》まで見送の小僧を一人つれて、ふらりと出ていって了った。三四箇月のあいだに、商売上のことは大体|頭脳《あたま》へ入って来たお島は、すっかり後を引受けて良人《おっと》を送出したが、意気な白地の単衣《ひとえ》物に、絞《しぼり》の兵児帯《へこおび》をだらりと締めて、深いパナマを冠《かぶ》った彼の後姿を見送ったときには、曽て覚えたことのない物寂しさと不安とを感じた。
それにお島は今月へ入ってからも、毎時《いつも》のその時分になっても、まだ先月から自分一人の胸に疑問になっている月のものを見なかった。そうして漸《やっ》とそれを言出すことのできたのは、鶴さんが気忙《きぜわ》しそうに旅行の支度を調えてからの昨夜《ゆうべ》であった。
「私何だか体の様子が可笑《おかし》いんですよ。きっとそうだろうと思うの」一度床へついたお島は、厠《かわや》へいって帰って来ると、漸《やっ》とうとうとと眠りかけようとしている良人の枕頭《まくらもと》に坐りながら言った。蒸暑い夏の夜は、まだ十時を打ったばかりの宵の口で、表はまだぞろぞろ往来《ゆきき》の人の跫音《あしおと》がしていた。朝の早い鶴さんは、いつも夜が早かった。
「そいつぁ些《ちっ》と早いな。怪しいもんだぜ」などと、鶴さんは節の暢々《のびのび》した白い手をのばして、莨盆《たばこぼん》を引寄せながら、お島の顔を見あげた。鶴さんはその頃、お島の籍を入れるために、彼女の戸籍を見る機会を得たのであったが、戸籍のうえでは、お島は一度作太郎と結婚している体《からだ》であった。それを知ったときには鶴さんは欺かれたとばかり思込んで、お島を突返そうと決心した。しかし鶴さんはその当座誰にもそれを言出す勇気を欠いていた。そしてお島だけには、ちょいちょい当擦《あてこすり》や厭味《いやみ》を言ったりして漸《やっ》と鬱憤をもらしていたが、どうかすると、得意まわりをして帰る彼の顔に、酒気が残っていたりした。お島が帳場へ坐っている時々に、優しい女の声で、鶴さんへ電話がかかって来たりしたのも、その頃であった。そんな時は、お島は店の若いもののような仮声《こわいろ》をつかって、先《さき》の処と名を突留めようと骨を折ったが、その効《かい》がなかった。お島はその頃から、鶴さんが外へ出て何をして歩いているか、解らないと云う不安と猜疑《さいぎ》に悩されはじめた。植源の嫁のおゆう、それから自分の姉……そんな人達の身のうえにまで思い及ばないではいられなかった。日頃口に鶴さんを讃《ほ》めている女が、片端から恋の仇《かたき》か何ぞであるかのように思え出して来た。姉は、お島が片づいてからも、ちょいちょい訪ねて来ては、半日も遊んでいることがあった。
「それなら、何故私をもらってくれなかったんです」姉は、鶴さんに揶揄《からか》われながら自分の様子をほめられたときに、半分は真剣らしく、半分は笑談《じょうだん》らしく、妹のそこにあることを意《こころ》にかけぬらしく、ぽっと上気したような顔をして言ったことがあったくらいであった。
お島はそれが癪《しゃく》にさわったといって、後で鶴さんと大喧嘩《おおげんか》をしたほどであった。
三十四
鶴さんは、その当座外で酒など飲んで来た晩などには、時々お島が自分のところへ来るまでの、長い歳月の間のことを、根掘葉掘して聴くことに興味を感じた。結婚届まですましてあったお島と作太郎との関係についての鶴さんの疑いは、お島が説明して聴《きか》す作太郎の様子などで、その時はそれで釈《と》けるのであったが、その疑いは護謨毬《ゴムまり》のように、時が経つと、また旧《もと》に復《かえ》った。
「嘘《うそ》だと思うなら、まあ一度私の養家へ往ってごらんなさい。へえ、あんな奴がと思うくらいですよ。そうね、何といって可《い》いでしょう……」お島は身顫《みぶるい》が出るような様子をして、その男のことを話した。
「嫌う嫌わないは別問題さ。左《と》に右《かく》結婚したと云うのは事実だろう」
「だから、それが親達の勝手でそうしたんですよ。そんな届がしてあろうとは、私は夢にも
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