》から来たと云って、若《わか》い衆《しゅ》が手紙を持って、迎いに来ましたよ。私《あっし》が取次いだんだから、間違いはありません」
 順吉はそう云って、まだ洋服もぬがずにいるお島の血相のかわった顔を眺めていた。
「じゃまた何処かで媾曳《あいびき》してるんだろうよ。上さん今夜こそは一つ突止めてやらなくちゃ……」
 お島は急いでコルセットなどを取はずすと、和服に着替えて、外へ飛出していった。時々小野田の飲みに行く家を彼女は思出さずにはいられなかった。

     百八

 秘密な会合をお島に見出《みいだ》されたその女は、その時から頭脳《あたま》に変調を来して、幾夜かのあいだお島たちの店頭《みせさき》へ立って、呶鳴《どな》ったり泣いたりした。
 女はお島に踏込まれたとき、真蒼《まっさお》になって裏の廊下へ飛出したのであったが、その時|段梯子《だんばしご》の上まで追っかけて来たお島の形相の凄《すご》さに、取殺されでもするような恐怖《おそれ》にわななきながら、一散に外へ駈出した。
「この義理しらずの畜生!」
 お島は部屋へ入って来ると、いきなり呶鳴りつけた。野獣のような彼女の体に抑えることが出来ない狂暴の血が焦《や》けただれたように渦をまいていた。
 締切ったその二階の小室《こま》には、かっかと燃え照っている強い瓦斯《ガス》の下に、酒の匂《にお》いなどが漂って、耳に伝わる甘い私語《ささやき》の声が、燃えつくような彼女の頭脳《あたま》を、劇しく刺戟《しげき》した。白い女のゴム櫛《ぐし》などが、彼女の血走った目に異常な衝動を与えた。
 手に傷などを負って、二人がそこを出たときには、春雨のような雨が、ぼつぼつ顔にかかって来た。
 まだ人通りのぼつぼつある、静かな春の宵に、女は店頭《みせさき》へ来て、飾窓の硝子《ガラス》に小石を撒《ま》きちらしたり、ヒステリックな蒼白い笑顔を、ふいにドアのなかへ現わしたりした。
「お上さんはいるの」
 女は臆病らしく奥口を覗《のぞ》いたりした。
「旦那をちょっと此処《ここ》へ呼んで下さいな」
 女はそう言って、しつこく小僧に頼んだ。
 小僧は面白そうに、にやにや笑っていた。
「旦那は今いないんだがね、お前さんも亭主があるんだから、早く帰って休んだら可《い》いだろう」
 お島は側へ来て、やさしく声かけた。そして幾許《いくら》かの金を、小い彼女の掌に載せてやった。
 女はにやにやと笑って、金を眺めていたが、投げつけるようにしてそれを押戻した。
「わたしお金なんか貰いに来たのじゃなくてよ。私を旦那に逢わしてください」
 女はそこを逐攘《おっぱら》われると、外へ出ていつまでもぶつぶつ言っていた。そして男の帰って来るのを待っているか何ぞのように其処《そこ》らをうろうろしていた。
「そっちに言分があれば、此方《こっち》にだって言分がありますよ」
 亭主から頼まれたと云って、四十|左右《そう》の遊人風の男が、押込んで来たとき、お島はそう言って応対した。そして話が込入って来たときに、彼女の口から洩れた、伯父の名が、その男を全くその談《はなし》から手を引かしめてしまった。顔利《かおきき》であった伯父の名が、世話になったことのあるその男を反対に彼女の味方にして了《しま》うことができた。

     百九

 親思いの小野田が、田舎ではまだ物珍しがられる蓄音器などをさげて、根津の店が失敗したおりに逐返《おいかえ》したきりになっている、父親を悦《よろこ》ばせに行った頃には、彼が留守になっても差閊《さしつか》えぬだけの、裁《たち》の上手な若い男などが来ていた。
 知った職人が、この頃小野田の裁を飽足らず思っているお島に、その男を周旋したのは、間服《あいふく》の註文などの盛んに出た四月の頃であったが、その職人は、来た時からお島の気に入っていた。
 自分でも店を有《も》ったりした経験のある、その職人は、最近に一緒にいた女と別れてそれまで持っていた世帯《しょたい》を畳んで、また職人の群へ陥《お》ちて来たのであったが、悪いものには滅多に剪刀《はさみ》を下《くだ》そうとしない、彼の手に裁たれ、縫わるる服は、得意先でも評判がよかった。おっつけ仕事を間に合すことのできないその器用な遅い仕事振を、お島は時々傍から見ていた。体つきのすんなりしたその様子や、世間に明いその男は、お島たちの見も聞きもしたことのないような世界を知っていたが、親しくなるにつれて小野田と酒などを飲んでいるときに、ちょいちょい口にする自分自身の情話などが、一層彼女の心を惹《ひ》いた。
「こんな仕事を私にさせちゃ損ですよ」
 彼はそう云って、どんな忙《いそが》しい時でも下等な仕事には手をつけることを肯《がえん》じなかった。
「それじゃお前さんは貧乏する訳さね」
 お島も躯《からだ》の弱いその男を、そんな仕事に不断に働かせるのを、痛々しく思った。
「それにお前さんは人品がいいから、身が持てないんだよ」
 お島は話ぶりなどに愛嬌《あいきょう》のあるその男の傍にすわっていると、自然《ひとりで》に顔を赧《あか》くしたりした。黒子《ほくろ》のような、青い小《ちいさ》い入墨が、それを入れたとき握合った女とのなかについて、お島に異様な憧憬《しょうけい》をそそった。
「いくつの時分さ」
 お島はその手の入墨を発見したとき、耳の附根まで紅くして、猥《みだら》な目を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、204−3]《みは》った。男はえへらえへらと、締《しまり》のない口元に笑った。
「あっしが十六ぐらいのときでしたろう」
「その女はどうしたの」
「どうしたか。多分大阪あたりにいるでしょう。そんな古い口は、もう疾《とっく》のむかしに忘れっちゃったんで……」
 暮に彼の手によって、濁ったところへ沈められた若い女のことが、まだ頭脳《あたま》に残っていた。
「そんな薄情な男は、私は嫌《きら》いさ」
 お島はそう言って笑ったが、男がその時々に、さばさばしたような気持で、棄てて来た多くの女などに関する閲歴が、彼女の心を蕩《とろ》かすような不思議な力をもっていた。
 蓄音器に、レコードを取かえながら、薄ら眠い目をしている小野田の傍をはなれて、お島はその男と、そんな話に耽《ふけ》った。

     百十

 小野田が田舎へ立ってから間もなく、急に浜屋に逢う必要を感じて来たお島が、その男に後を頼んで、上野から山へ旅立ったのは、初夏《はつなつ》のある日の朝であった。
 病院で躯《からだ》の療治をしてからのお島は、先天的に欠陥のない自分の肉体に確信が出来たと同時に、今まで小野田から受けていた圧迫の償いをどこかに求めたい願いが、彼女の頭脳《あたま》に色々の好奇な期待と慾望とを湧かさしめた。いつからか朧《おぼろ》げに抱《いだ》いていた生理的精神的不満が、若いその職人のエロチックな話などから、一層誘発されずにはいなかった。
 そしてそれを考えるときに、彼女はその対象として、浜屋を心に描いた。
「あの人に一度逢って来よう。そして自分の疑いを質《ただ》そう」
 お島はそれを思いたつと、一日も早くその男の傍へ行って見たかった。
 一つはそれを避けるために田舎へ帰った小野田がいなくなってからも、まだ時々|店頭《みせさき》へ来て暴れたり呶鳴《どな》ったりする狂女が、巣鴨《すがも》の病院へ送込まれてから、お島はやっと思出の多いその山へ旅立つことができた。
 全く色情狂に陥ったその女は、小野田が姿を見せなくなってからは、一層心が狂っていた。そして近所の普請場から鉋屑《かんなくず》や木屑をを拾い集めて来て、お島の家の裏手から火をかけようとさえするところを、見つけられたりした。
 近所の人だちの願出《ねがいいで》によって、警察へ引張られた彼女が、梁《はり》から逆さにつられて、目口へ水を浴せられたりするところを、お島も一度は傍で見せつけられた。
「水をかけられても、目をつぶらないところを見ると、これは確《たしか》に狂気《きちがい》です」
 責道具などの懸けられてあるその室で、お島は係の警官から、笑いながらそんな事を言われた。
「私は二三日で帰って来ますからね、留守をお頼み申しますよ」
 お島は立つ前の晩にも、その職人に好きな酒を飲ませたり、小遣《こづかい》をくれたりして頼んだ。
「多分それまでに帰ってくるようなことはないだろうと思うけれど、偶然《ひょっ》として良人《うち》が帰って来たら、巧《うま》い工合に話しておいて下さいよ。前《せん》に縁づいていた人のお墓参りに行ったとそう言ってね」
 お島は顔を赧《あか》らめながら言った。
「可《よ》ござんすとも。ゆっくり行っておいでなさいまし」
 その男はそう言って潔《きよ》く引受けたが、胡散《うさん》な目をして笑っていた。
「真実《ほんとう》にわたし恁《こ》ういう人があるんです」
 お島は終《しま》いにそれを言出さずにはいられなかった。
「けどこれだけはあの人には秘密ですよ」

     百十一

 博覧会時分に上京して来た、山の人たちに威張って逢えるだけの身のまわりを拵《こしら》えて、お島があわただしい思いで上野から出発したのは、六月の初めであった。
 四五年前に、兄に唆《そその》かされて行った頃の暗い悲しい心持などは、今度の旅行には見られなかったが、秘密な歓楽の果《み》をでも偸《ぬす》みに行くような不安が、汽車に乗ってからも、時々彼女の頭脳《あたま》を曇らした。
 汽車の通って行く平野のどこを眺めても、昔《むか》しの記憶は浮ばなかった。大宮だとか高崎だとかいうような、大きなステーションへ入るごとに、彼女は窓から首を出して、四下《あたり》を眺めていたが、しばらく東京を離れたことのない彼女には、どこも初めてのように印象が新しかった。高崎では、そこから岐《わか》れて伊香保《いかお》へでも行くらしい男女《おとこおんな》の楽しい旅の明い姿の幾組かが、彼女の目についた。蓄音器をさげて父親を悦《よろこ》ばせに行った小野田が思出された。不恰好《ぶかっこう》な洋服を着たり、自転車に乗ったりして、一年中働いている自分が、都《すべ》て見くびっているつもりの男のために、好い工合に駆使されているのだとさえしか思われなかった。
「わたしは莫迦だね。浜屋に逢いに行くのにさえ、こんなに気兼をしなくてはならない。あの人はこれまでに、私に何をしてくれたろう」
 お島は口を利くものもない客車のなかで、静かに東京の埃《ほこり》のなかで活動している自分の姿が考えられるような気がした。慾得《よくとく》のためにのみ一緒になっているとしか思えない小野田に対する我儘《わがまま》な反抗心が、彼女の頭脳《あたま》をそうも偏傾《へんけい》せしめた。何のために血眼《ちまなこ》になって働いて来たか解らないような、孤独の寂しさが、心に沁拡《しみひろ》がって来た。
 桐の花などの咲いている、夏の繁みの濃い平野を横ぎって、汽車はいつしか山へさしかかっていた。高崎あたりでは日光のみえていた梅雨時《つゆどき》の空が、山へ入るにつれて陰鬱に曇っているのに気がついた。窓のつい眼のさきにある山の姿が、淡墨《うすずみ》で刷《は》いたように、水霧に裹《つつ》まれて、目近《まぢか》の雑木の小枝や、崖の草の葉などに漂うている雲が、しぶきのような水滴を滴垂《したた》らしていたりした。白い岩のうえに、目のさめるような躑躅《つつじ》が、古風の屏風《びょうぶ》の絵にでもある様な鮮《あざや》かさで、咲いていたりした。水がその巌間《いわま》から流れおちていた。
 深い渓《たに》や、高い山を幾つとなく送ったり迎えたりするあいだに、汽車は幾度《いくたび》となく高原地の静なステーションに停《とど》まった。旅客たちは敬虔《けいけん》なような目を側《そば》だてて、山の姿を眺めた。
 ステーションへつく度に、お島は待遠しいような気がいらいらいした。
 山の町近くへ来たのは、午後の四時頃であった。糠《ぬか》のような雨が、そのあたりでも窓硝子を曇らしていた。

     百十二

 目ざす町
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