れらの軽快な服装を要求した。不思議なほど気持の引締ってくるのを覚えた。朝露にまだしっとりとしているような通りを、お島は一朝でも、洋服で出て行かない日があると、一日気分が悪かった。
 自転車で納めものを運んで行く小野田が、どうかすると途中で彼女の側へ寄って来た。
「惜い事には丈《たけ》が足りないね」
 小野田は胴幅《どうはば》などの広い彼女の姿を眺めながら言った。
「どうせ労働服ですもの、様子なんぞに介意《かま》っていられるもんですか」
 二人は暫く歩きながら話した。

     百四

 月が十月へ入ってから、撒いておいた広告の著しい効験《ききめ》で、冬の制服や頭巾《ずきん》つきの外套《がいとう》の註文などが、どしどし入って来た。その頃から工場には職人の数も殖えて来た。徒歩の目弛《まだる》いのに気を腐《くさら》していたお島は、小野田の勧めで、自転車に乗る練習をはじめていた。
 晩方になると、彼女は小野田と一緒に、そこから五六丁|隔《へだた》った原っぱの方へ、近所で月賦払いで買入れた女乗の自転車を引出して行った。一月《ひとつき》の余《よ》も冠った冠物《かぶりもの》が暑い夏の日に焦《や》け、リボンも砂埃に汚れていた。お島はその冠物の肩までかかった丸い脊を屈《こご》めて、夕暗のなかを、小野田についていて貰《もら》って、ハンドルを把《と》ることを学んだ。
 近いうちに家が建つことになっているその原には、桐《きり》の木やアカシヤなどが、昼でも涼しい蔭を作っていた。夏草が菁々《せいせい》と生繁《おいしげ》って、崖のうえには新しい家が立駢《たちなら》んでいた。
 そこらが全く夜《よる》の帷《とばり》に蔽《おお》い裹《つつ》まるる頃まで、草原を乗まわしている、彼女の白い姿が、往来の人たちの目を惹《ひ》いた。
 木の蔭に乗物を立てかけておいて、お島は疲れた体を、草のうえに休めるために跪坐《しゃが》んだ。裳裾《もすそ》や靴足袋《くつたび》にはしとしと水分が湿《しと》って、草間《くさあい》から虫が啼《な》いていた。
 お島はじっとり汗ばんだ体に風を入れながら、鬱陶しい冠《かぶり》ものを取って、軽い疲労と、健やかな血行の快い音に酔っていた。腿《もも》と臀部《でんぶ》との肉に懈《だる》い痛みを覚えた。小野田は彼女の肉体に、生理的傷害の来ることを虞《おそ》れて、時々それを気にしていたが、自転車で町を疾走するときの自分の姿に憧《あこが》れているようなお島は、それを考える余裕すらなかった。
「少しくらい体を傷《いた》めたって、介意《かま》うもんですか。私たちは何か異《かわ》ったことをしなければ、とても女で売出せやしませんよ」
 お島はそう言って、またハンドルに掴まった。
 朝はやく、彼女は独《ひとり》でそこへ乗出して行くほど、手があがって来た。そして濛靄《もや》の顔にかかるような木蔭を、そっちこっち乗りまわした。秋らしい風が裾に孕《はら》んで、草の実が淡青く白《しろ》い地《じ》についた。崖のうえの垣根から、書生や女たちの、不思議そうに覗《のぞ》いている顔が見えたりした。土堤《どて》の小径《こみち》から、子供たちの投げる小石が、草のなかに落ちたりした。
「おそろしい疲れるもんですね」
 一月《ひとつき》ほどの練習をつんでから、初めて銀座の方へ材料の仕入に出かけて行って、帰って来たお島は、自転車を店頭《みせさき》へ引入れると、がっかりしたような顔をして、そこに立っていた。
「須田町から先は、自分ながら可怕《おっかな》くて為様《しよう》がなかったの。だけど訳はない。二三度乗まわせば急度《きっと》平気になれます」お島は自信ありそうに言った。[#「言った」は底本では「言つた」]

     百五

 忙《いそが》しいその一冬を自転車に乗づめで、閑《ひま》な二月が来たとき、お島は時々疑問にしていながら、診てもらうのを厭《いや》がっていた、自分の体をふとした機会から、病院で医者に診せた。
「……毛がすっかり擦切れてしまったところを見ると、余程《よっぽど》毒なもんですね」
 お島はそう言って、そこを小野田に見せたりなどしていたが、それはそれで真《ほん》の外面の傷害に過ぎないらしかった。
 その病院では、お島の親しい歯科医の細君が、腹部の切開で入院していた。そこへお島は時々見舞に行った。
 そんなところへも自分の商売を広告するつもりで、看護婦や下足番などへの心づけに、切放《きれはな》れの好いお島は、直に彼等とも友達になったが、一二度体を診てもらううちに、親しい口を利《き》きあう若い医師が、二人も三人もできた。
 段々|肥立《ひだ》って来た、売色《くろうと》あがりの細君の傍で、お島は持って行った花を花瓶《かびん》に挿《さ》したり、薄くなった頭髪《あたま》に櫛《くし》を入れて、束《つく》ねてやったりして、半日も話相手になっていた。
「どう云うんでしょう、私の体は……」
 お島は看護婦などのいる傍で、いつかも印判屋の上さんに訊《たず》ねたと同じことを言出した。
「夫婦の交際《まじわり》なんてものは、私にはただ苦しいばかりです。何の意味もありません」
「それは貴女《あなた》がどうかしてるのよ」
 患者は日ましに血色のよくなって来た顔に、血の気のさしたような美しい笑顔を向けて、お島の顔を眺めた。
「でも可笑《おかし》いんですの。こんなことを言うのは、自分の恥を曝《さら》すようなもんですけれど、実際あの人が変なんです」
 お島は紅い顔をして言った。
「ええ、そんな人も千人に一人はありますね」
 お島が診てもらった医者に、それを言出すほど気がおけなくなったとき、彼はそう言って笑っていた。
 位置が少し変っているといわれた自分の体を、お島はそれまでに、もう幾度《いくたび》も療治をしてもらいに通ったのであった。
「当分自転車をおやめなさい。圧迫するといけない」
 お島は苦しい療治にかかった最初の日から、そう言われて毎日和服で外出《そとで》をしていた。
 長いお島の病院がよいの間、小野田が、多く外まわりに自転車で乗出した。
 顧客《とくい》先で、小野田が知合になった生花《はな》の先生が出入《ではい》りしたり、蓄音器を買込んだりするほど、その頃景気づいて来ていた店の経済が、暗いお島などの頭脳《あたま》では、ちょと考えられないほど、貸や借の紛紜《こぐらかり》が複雑になっていたが、それはそれとして、身装《みなり》などのめっきり華美《はで》になった彼女は、その日その日の明い気持で、生活の新しい幸福を予期しながら、病院の門を潜《くぐ》った。

     百六

 小野田は時々外廻りに歩いて、あとは大抵店で裁《たち》をやっていたが、隙《すき》がありさえすれば蓄音器を弄《いじ》っていた。楽遊《らくゆう》や奈良丸《ならまる》の浪華節《なにわぶし》に聴惚《ききほ》れているかと思うと、いつかうとうと眠っているようなことが多かった。
 しげしげ足を運んでくる生花《はな》の先生は、小野田が段々好いお顧客《とくい》へ出入《ではい》りするようになったお島に習わせるつもりで、頼んだのであったが、一度も花活《はないけ》の前に坐ったことのない彼女の代りに、自身二階で時々無器用な手容《てつき》をして、ずんどのなかへ花を挿《さ》しているのを、お島は見かけた。
 もと人の妾などをしていたと云う不幸なその女は、どうかすると二時間も三時間も遊んで帰ることがあった。上方《かみがた》に近い優しい口の利き方などをして、名古屋育ちの小野田とはうま[#「うま」に傍点]が合っていた。
「私だって偶《たま》には逆様《さかさ》にお花も活《い》けてみとうございますよ」
 外から帰って、ふと二階の梯子《はしご》をあがって行くお島の耳に、その日も午《ひる》から来て話込んでいたその年増《としま》の媚《なま》めかしい笑い声が洩《も》れ聞えた。嫉妬《しっと》と挑発とが、彼女の心に発作的におこって来た。
 女が帰って行くとき、お島はいきなり帳場の方から顔を出して行った。
「お気毒《きのどく》さまですがね、宅《たく》はお花なんか習っている隙《ひま》はないんですから、今日きり私《わたくし》からお断りいたします」
 お島は硬《こわ》ばった神経を、強《し》いておさえるようにして、そう言いながら謝礼金の包を前においた。
 もう三十七八ともみえる女は、その時も綺麗に小皺《こじわ》の寄った荒《すさ》んだ顔に薄化粧などをして、古いお召の被布姿《ひふすがた》で来ていたが、お島の権幕に怯《お》じおそれたように、悄々《すごすご》出ていった。
「この莫迦!」
 二階へ駈《かけ》あがって往ったお島は、いきなり小野田に浴せかけた。毎日|鬢《びん》や前髪を大きくふっくらと取った丸髷《まるまげ》姿で出ていた彼女は、大きな紋のついた羽織もぬがずに、外眦《めじり》をきりきりさせてそこに突立っていた。
「髯《ひげ》なんかはやして、あんなものにでれでれしているなんて、お前さんも余程《よっぽど》な薄野呂《うすのろ》だね」
 お島はそう言いながら、そこにあった花屑《はなくず》を取あげて、のそりとしている小野田の顔へ叩《たた》きつけた。吊《つり》あがったような充血した目に、涙がにじみ出ていた。
「何をする」
 小野田も怒りだして、そこにあった水差を取ってお島に投げつけた。彼女の御召の小袖から、水がだらだらと垂れた。
 負けぬ気になって、お島も床の間に活かったばかりの花を顛覆《ひっくらか》えして、へし折りへし折りして小野田に投《ほう》りつけた。
 劇《はげ》しい格闘が、直《じき》に二人のあいだに初まった。小野田が力づよい手を弛《ゆる》めたときには、彼女の鬢《びん》がばらばらに紊《ほつ》れていた。そうして二人は暫く甘い疲労に浸りながら、黙って壁の隅っこに向きあって坐っていた。

     百七

 二人が階下《した》へおりていったのは、もう電燈の来る時分であった。病院通いをするようになってから、可恐《おそろ》しいものに触れるような気がして、絶えて良人《おっと》の側へ寄らなかった彼女は、その時も二人の肉体に同じような失望を感じながら、そこを離れたのであった。
「あなたは別に女をもって下さい」
 お島はそう言って、根津にいた頃近所の上さんに勧められて、小野田が時々逢ったことのある女をでも、小野田に取戻そうかとさえ考えていた。
「そうでもしなければ、とてもこの商売はやって行けない」お島はそうも考えた。
 産れが好いとかいわれていたその女は、ここへ引越してからも、一二度|店頭《みせさき》へ訪ねて来たことがあったが、お島はそれの始末をつけるために、砲兵|工廠《こうしょう》の方へ通っている或男を見つけて、二人を夫婦にしてやったのであった。
 小野田がどうかすると、その女のことを思い出して、裏店住《うらだなずま》いをしている、戸崎町の方へ訪ねて行くことを、お島もうすうす感づいていた。
「あの女はどうしました」
 お島は思出したように、それを小野田に訊ねたが、その頃は食物屋《たべものや》などに奉公していた当座で、いくらか身綺麗にしていた女は、亭主持になってからすっかり身装《みなり》などを崩しているのであった。
「いくら向うに未練があったって、あの頃とは違いますよ。亭主のあるものに手を出して、呶鳴込《どなりこ》まれたらどうするんです」
 小野田がまだ全く忘れることのできないその女のことを口にすると、お島はそう言って窘《たしな》めたが、別れてからも、小野田に執着を持っている女を不思議に思った。
「あいつの亭主は、そんな事を怒るような男じゃない、おれがあいつの世話をしていたことも、ちゃんと知っていて、今でもそういうことには無神経でいるんだ」
 小野田はそう言って笑っていた。
 二三日前から、また時々自転車で乗出すことにしていたお島が、ある晩九時頃に家へ帰って来ると、女から、呼出をかけられて、小野田は家にいなかった。
「どこへ行ったえ」
 お島は何のことにも能《よ》く気のつく順吉に、私《そっ》とたずねた。
「白山《はくさん
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