そ》るか、お上さんはここで最後の運を試すんだよ」
萌黄《もえぎ》の風呂敷に裹《つつ》んだその蒲団を脊負いださせるとき、お島は気嵩《きがさ》な調子で、その時までついて来た順吉を励《はげま》した。
「お前もその意《つもり》でやっておくれ。この恩はお上さん一生忘れないよ」
涙含《なみだぐ》んだような顔をして、それを脊負って行く順吉のいじらしい後姿を見送っているお島の目には、涙が入染《にじ》んで来た。
「どうでしょう。職人は小《ちいさ》い時分から手なずけなくちゃ駄目だね。順吉だけは、どうか渡職人《わたりじょくにん》の風《ふう》に染《し》ましたくないもんだ。それだけでも私たちは茫然《ぼんやり》しちゃいられない」
お島は大工の仕事を見ている、小野田の傍へ来て呟《つぶや》いた。
表では大工が、二人ばかりの下を使って、せっせっと木拵《きごしら》えに働いていた。
百
あらかた出来あがったところで、大工の手を離れた店の飾窓や、入口の戸《ドア》に張るべき硝子《ガラス》を、お島が小野田に言われて、根津に家を持ったときから顔を知られている或硝子屋へ懸けあいに行ったのは、それから間もなくであった。
お島はその日も、新しい店を持った吹聴かたがた、朝から顧客《とくい》まわりをして、三時頃にやっと帰って来たが、夏場はどこでも註文がなくて、代りに一つ二つの直しものを受取ったきりであった。
外は黄熟《おうじゅく》した八月の暑熱が、じりじり大地に滲透《しみとお》るようであった。蝉《せみ》の声などのまだ木蔭に涼しく聞かれる頃に、家を出ていった彼女は、行く先々で、取るべき金の当がはずれたり、主《あるじ》が旅行中であったりした。古くからの昵《なじ》みの家では、彼女は病気をしている子供のために、氷を取替えたり、団扇《うちわ》で煽《あお》いだりして、三時間も人々に代って看護をしていたりして、目がくらくらするほど空腹を感じて来た頃に、家へ帰って来たのであった。
家では大工がみんな昼寝をしていた。小野田もミシン台をすえた奥の六畳の涼しい窓の下で、横わっていた。
お島はそこらをがたぴし言わせて、着替などをしていた。根津の家を引払う前に、田舎へ還してしまった父親の毎日々々飲みつづけた酒代の、したたか滞っている酒屋の註文聞の一人に、途中で出逢って、自分の方からその男に声をかけて来なければならなかったことなどが、一層彼女の頭脳《あたま》をむしゃくしゃさせていた。小野田がその父親を呼寄せさえしなければ、あの家もどうか恁《こう》か持続けて行けたように考えられた。あの飲んだくれのために、どのくらい自分の頭脳が掻廻《かきまわ》され、働きが鈍らされたか知れないと思った。
「撲《ぶち》のめしても飽足りない奴だ」
お島は、酔ったまぎれに自分を離縁しろといって、小野田を手甲擦《てこず》らせていたと云う父親の言分から、内輪が大揉《おおも》めにもめて、到頭田舎へ帰って行くことになった父親に対する憎悪が、また胸に燃えたって来るのを覚えた。小野田の寝顔までが腹立しく見返えられた。
「せっせと仕事をして下さいよ。莫迦みたいな顔して寝ていちゃ困りますよ」
小野田が薄目をあいて、ちろりと彼女の顔を見たとき、お島はいらいらした声で言った。
お島は台所で飯を食べている時分に、やっと小野田はのそのそ起出して来た。
「仕事々々って、そうがみがみ言ったって仕事ができるもんじゃないよ」
小野田は火鉢の傍へ来て、莨《たばこ》をふかしはじめながら、まだ眠足《ねむりた》りないような赭《あか》い目をお島の方へ向けた。
「それよりか硝子の工面もしなければならず、店だって飾なしにおかれやしない」
「知らないよ、私は。自分でもちっと心配するがいいんだ」お島は言返した。
百一
小野田はそこへ脱ぎっぱなしにしたお島の汗ばんだ襦袢《じゅばん》や帯が目に入ったり、不断著を取出すために引掻《ひっかき》まわした押入のどさくさした様子などを見ると、とても世帯は持てない女だといって、自分のために離縁を勧めた父親の辞《ことば》が思い出された。
「技倆《はたらき》があるか何だか知らんが、まあ大変なもんだ。とても女とは思えんの」
そうも言って、荒いお島の調子に驚いていた父親の善良そうな顔も思出された。
「朝から出て、あれは一日どこを何をして歩いてるだい」
父親はそうも言って、不思議がったが、お島自身に言わせると、朝は誰かが台所働きをしてくれて、気持よく家を出なければ、とても調子よく外で働くことはできないというのであった。帰って来た時にも、自分を迎えてくれる衆《みんな》の好い顔をでも見なければ埋らないと言うのであった。それで小野田は順吉と一緒に、どうかすると七輪に火をおこしたり、漬物桶《つけものおけ》へ手を入れたりすることを行《や》っているのであったが、お島が一人で面白がってやっている顧客《とくい》まわりも、集金の段になってくると、やっぱり小野田自身が出て行くより外ないようなことが多かった。
夕方にお島は機嫌を直して、硝子屋の方へ出て行った。
「この店さえ出来あがれば、少し資本を拵《こしら》えて、夏の末には己が新趣向の広告をまいて、有《あら》ゆる中学の制服を取ろうと思っている」
小野田はそう言って、この頃から考えていた自分の平易で実行し易《やす》いような企劃《もくろみ》をお島に話した。
「それには女唐服《めとうふく》を着て、お前が諸学校へ入込んで行かなければならぬのだがね」
「駄目です駄目です。制服なんかやったって、どれだけ儲かるもんですか」
そんな際物《きわもの》仕事が、自分の顔にでもかかるか何かのように考えているお島は、そう言って反抗したが、好い客を惹着《ひきつ》けるような立派な場所と店と資本とをもたない自分達に取っては、そうでもして数でこなすより外ないことを小野田は主張した。
学生相手の確《たしか》なことはお島も知っていた。洋服姿で、若い学生だちの集りのなかへ入って行く自分の姿を想像するだけでも、彼女は不思議な興味を唆《そそ》られた。
「そうすると、お前の顔は直きに学生仲間に広まってしまうよ」
小野田はその妻や娘を売物にすることを能《よ》く知っている、思附のある興行師か何ぞのような自分の計劃《けいかく》で、成功と虚栄に渇《かわ》いている彼女を使嗾《しそう》する術を得たかのように、自信のある目を輝かしていた。
「ふむ」お島は自分がいつからかぼんやり望んでいたことを、小野田が探りあててくれたような興味を感じた。男が頼もしい悧巧《りこう》もののように思えて来た。
「それは確《たしか》にあたるね」お島はそういって賛成した。
百二
横浜に店を出している知合いの女唐服屋で、お島が工面した金で自分の身装《みなり》をすっかり拵《こしら》えて来たのは、それから大分たってからであった。
新築の家はすっかり出来あがって、硝子もはまった飾窓に、小野田が柳原から見つけて買って来た古い大礼服の金モオルなどが光っていた。
一度姿見を買ったことのある硝子屋では、主人はその申込を最初は断ったが、お島のことを知っている息子《むすこ》が、自分で引受けて要《い》るだけの硝子を入れてくれた。
「老爺《おやじ》はああいいますけれど、お上さんの気前を買って、私がお貸し申しましょう。だから入れられるだけ入れてみて下さい。倒されればそれまでです」
そしてその翌朝、彼は小僧と一緒に硝子を運びこんで、それを飾窓や入口のドアなどに切はめてくれた。
「お前さんは若いにしては感心だよ。そう云う風に出られると、誰だって贔屓《ひいき》にしないじゃいられないからね。また好いお得意をどっさり世話してあげますよ」
お島はそう言って、その硝子屋を還した。
看板を書くために、ペンキ屋が来たり、小野田が自転車で飛して、方々当ってみてあるいた羅紗のサンプルが持込まれたり、スタイルの画見本の額が、店に飾られたりした。
白い夏の女唐服に、水色のリボンの捲《ま》かれた深い麦稈《むぎわら》帽子を冠《かぶ》って、お島が得意まわりをしはじめるようになったのは、それから大分たってからであった。
「どうです、似合いますか」などと、お島は姿見の前を離れて、その頃また来ることになった木村という職人や小野田の前に立った。コルセットで締つけられた、太い胴が息がつまるほど苦しかった。皮膚の汚点《しみ》や何かを隠すために、こってり塗りたてた顔が、凄艶《せいえん》なような蒼味《あおみ》を帯びてみえた。
「莫迦《ばか》に若くみえるね。少くとも布哇《ハワイ》あたりから帰って来た手品師くらいには踏めますぜ」木村は笑った。
お島はその身装《なり》で、親しくしているお顧客《とくい》をまわって行った。その中には若い歯科医や弁護士などもあった。
「どこの西洋美人がやって来たかと思ったら、君か」
途中で行逢った若い学生たちは、そういって不思議な彼女の姿に目を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、190−14]《みは》った。
「その身装《なり》で、ぜひ僕んとこへもやって来てくれたまえ」
彼等の或者は、肉づきの柔かい彼女の手に握手をして、別れて行ったりした。
「洋服はばかに評判がいいんですよ」
お島は日の暮に帰って来ると、急いで窮屈なコルセットをはずしてもらうのであったが、薄桃色肉のぽちゃぽちゃした体が、はじめて自分のものらしい気がした。
小野田は色々の学校へ新《あらた》に入学した学生たちの間に撒《ま》くべき、広告札の意匠などに一日腐心していた。
百三
時間割表などの刷込まれた、二つ折小形のその広告札を、羅紗《らしゃ》の袋に入れて、お島は朝早く新入生などの多く出入《ではいり》する学校の門の入口に立った。
「どうぞどっさりお持くださいまし。そして皆さん方へも、お拡めなすって下さいまし」お島はそう云って、それを彼等の手に渡した。
「私《わたくし》どもでは皆さんの御便宜を図って、羅紗屋と特約を結んで、精々勉強いたしますから、どうぞ御贔屓に……スタイルも極《ごく》斬新《ざんしん》でございます」彼女はそうも云って、面白そうに集ってくる若い人達の心を惹着《ひきつ》けた。
「安いね」
「洋行がえりの洋服屋だとさ」
学生たちは口々に私語《ささや》きあった。
「おいおい、引札を撒《ま》くことは止めてもらおう。此方《こちら》ではそれぞれ規定の洋服屋があるから」
門番や小使たちは、学生の手から校庭へ撒棄てられる引札を煩《うるさ》がって、彼女を逐攘《おいはら》おうとした。
お島は時とすると、札《さつ》を二三枚ポケットから取出して、彼等の手に渡した。そして学校の事務員にまで取入ることを怠らなかった。
「品物を好くして、安く勉強すると云うなら、どこで拵えるのも同じだから、学生を勧誘するのも君の自由だがね」
事務員はそう云って、彼女の出入《しゅつにゅう》に黙諾を与えてくれたりした。
広い運動場に集っている生徒のなかへ、お島の洋服姿が現れて行った。
時には一つの学校から、他の学校へ彼女は腕車《くるま》を飛しなどして、せり込んで行く多くの同業者と劇《はげ》しい競争を試みることに、深い興味を感じた。
小野田や職人たちが、まだぐっすり眠っているうちに、お島は床を離れて、化粧《おつくり》をするために大きい姿見の前に立った。そして手ばしこくコルセットをはめたり、漸《ようや》く着なれたペチコオトを着けたりした。洋服がすっかり体に喰《く》っついて、ぽちゃぽちゃした肉を締つけられるようなのが、心持よかった。そして小《ちいさ》いしなやかな足に、踵《かかと》の高い靴をはくと、自然《ひとりで》に軽く手足に弾力が出て来て、前へはずむようであった。ぞべらぞべらした日本服や、ぎごちない丸髷姿では、とても入って行けない場所へ、彼女の心は、何の羞恥《しゅうち》も億劫《おっくう》さも感ずることなしに、自由に飛込んで行くことができた。
朝おきると、懈《だる》い彼女の体が、直《じき》にそ
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