が、それはその時で、聴流しているのであった。
「私のこったもの、どうせ好くは言われないさ。あの田舎ものにこの上さんの気前なんかわかるものかね」
 お島はそう云って笑っていたが、新しく入って来たものから、世間普通の嫁と一つに見られているのが、侮辱のように感ぜられて腹立しかった。
「お上さん今夜は好いことがあるんだから、何かおごろうか」お島は二人に言った。
「おごって下さい」
「じゃ、みんなおいでおいで」
 お島は先に立って、何か食べさせるような家を捜してあるいた。
「……上さんを離縁しろなんて言っていましたよ」
 風の吹通しな水辺の一品料理屋でアイスクリームや水菓子を食べながら、順吉は話した。
「へえ、そんなことを言っていたかい」お島はそれでも極《きま》りわるそうに紅くなった。
「へん、お気の毒さまだが、舅《しゅうと》に暇を出されるような、そんな意気地なしのお上さんと上さんが異《ちが》うんだ」

     九十六

 お島が毎日のように呼出されて、市内の芝居や寄席《よせ》、鎌倉や江の島までも見物して一緒に浮々しい日を送っていた山の連中は、田舎へ帰るまでに、一度お島達夫婦のところへも遊びにやって来たが、それらの人々が宿を引揚げて行ってからも、浜屋の主人だけは、お島の世話で部屋借をしていた家から、一月の余《よ》も病院へ通っていた。
 田舎では大した金持ででもあるように、お島が小野田に吹聴しておいた山の客が、どやどややって来たとき――浜屋だけは加わっていなかったが――お島は水菓子にビールなどをぬいて、暑い二階で彼等を※[#「※」は「疑」の左側+欠」第3水準1−86−31、178−8]待《もてな》したが、小野田も彼等から、商売の資本でも引出し得るかのように言っているお島の言《ことば》を信じて、そこへ出て叮嚀《ていねい》な取扱い方をしていた。
 お島はその一人からは夏のインバネス、他の一人からは冬の鳶《とんび》と云う風に、孰《いずれ》も上等品の註文を取ることに抜目がなかったが、いつでも見本を持って行きさえすれば、山の町でも好い顧客《とくい》を沢山世話するような話をも、精米所の主人が為ていた。
「私がこの旦那方に、どのくらいお世話になったか知れないんです」
 お島はそう言って小野田にも話したが、そこにお島の身のうえについて、何か色っぽい挿話《そうわ》がありそうに、感の鈍い小野田にも想像されるほど、彼等はお島と狎々《なれなれ》しい口の利《き》き方をしていた。
 肉づいた手に、指環などを光《ひから》せている精米所の主人のことを、小野田は山にいた時のお島の旦那か何ぞであったように猜《うたが》って、彼等が帰ったあとで、それをお島の前に言出した。
「ばかなことをお言いでないよ」
 お島は散かったそこらを取片着けながら、紅い顔をして言った。たっぷりした癖のない髪を、この頃一番自分に似合う丸髷に結って、山の客が来てからは、彼女は一層|化粧《みじまい》を好くしていた。指環なども、顔の広い彼女は、何処かの宝玉屋から取って来て、見なれない品を不断にはめていた。それが小野田の目に、お島を美しく妬《ねた》ましく見せていた。
「その証拠には、お前は私のおやじがこの席へ顔を出すのを、大変厭がったじゃないか」
 私が出て挨拶をするといって、聴かなかった父親に顔を顰《しか》めて、奥へ引込めておくようにしたお島の仕打を、小野田は気にかけて言出した。
「だって可恥《はずか》しいじゃないか。お前さんの前だけれど、あの御父さんに出られて堪《たま》るもんですか。お前さんの顔にだってかかります」
「昔《むか》しの旦那だと思って、余《あんま》り見えをするなよ」
「人聞きのわるいことを言って下さるなよ」お島は押被《おっかぶ》せるように笑った。「あの人達に笑われますね。それが嘘なら聴いてみるがいい」
「そうでもなくて、あんな者が来たってそんなに大騒ぎをする奴があるかい」
「煩《うるさ》いよ」お島は終《しまい》に呶鳴《どなり》出した。

     九十七

 暑い東京にも居堪《いたたま》らなくなって、浜屋がその宿を引払って山へ帰るまでに、お島は幾度《いくたび》となくそこへ訪ねて行ったが、彼女はそれを小野田へ全く秘密にはしておけなかった。ちょっと手許《てもと》の苦しい時なぞに、お島は浜屋から時借《ときがり》をして来た金を、小野田の前へ出して、その男がどんな場合にも、自分の言うことを聴いてくれるような関係にあることを、微見《ほのめ》かさずにはいられなかった。
 浜屋はその通《かよ》っている病院で、もう十本ばかり、やってもらった注射にも飽きて、また出るにしても、盆前にはどうしても一度は帰らなければならぬ家の用事を控えている体であったが、お島たち夫婦の内幕が、初め聴いたほど巧く行っていないことが、幾度も逢っているうちに、自然《ひとりで》に彼女の口から洩聞されるので、その事も気にかかっているらしかったが、やっぱり自分の手でそれをどうしようと云う気にもなれないらしかった。
「そんな事を言わずにまあ辛抱するさ」
 お島はその時の調子で、どうかすると心にもない自分の身《み》の上《うえ》談《ばなし》がはずんで、男に凭《もた》れかかるような姿態《ようす》を見せたが、聴くだけはそれでも熱心に聴いている浜屋が、何時でもそういった風の応答《うけごたえ》ばかりして笑っているのが物足りなかった。
「あの時分とは、まるで人が変ったね」お島は男の顔を眺めながら言った。
「変ったのは私ばかりじゃないよ」お島は男がそう云って、自分の丸髷姿をでも見返しているような羞恥《しゅうち》を感じて来た。
「月日がたつと誰でもこんなもんでしょうか」
 お島は二階の六畳で疲れた体を膝掛《ひざかけ》のうえに横《よこた》えている男の傍に坐って、他人行儀のような口を利いていたが、興奮の去ったあとの彼女は、長く男の傍にもいられなかった。
 部屋には薄明い電気がついていた。お島はどうしても直《ぴった》り合うことの出来なくなったような、その時の厭な心持を想出しながら、涼気《すずけ》の立って来た忙しい夕暮の町を帰って来たが、気重いような心持がして、店へ入って行くのが憚《はばか》られた。
「己《おれ》も一度その人に逢っておこう」
 小野田はお島から金を受取ると、そう云って感謝の意を表《あらわ》した。
「可《い》けない可けない」お島はそれを拒んで、「あの人は莫迦《ばか》に内気な人なんです。田舎にもあんな人があるかと思うくらい、温順《おとな》しいんですから、人に逢うのを、大変に厭がるんです」
 小野田はそれを気にもかけなかったが、やっぱりその男のことを聴きたがった。
「それは東京にも滅多にないような好い男よ」お島は笑いながら応えたが、自分にも顔の赧《あか》くなるのを禁じ得なかった。

     九十八

 避暑客などの雑沓《ざっとう》している上野の停車場《ステーション》で、お島が浜屋に別れたのは、盆少し前の或日の午後であったが、そんな人達が全く引揚げて行ってから、お島たちはまた自分の家のばたばたになっていることに気がついた。
 浜屋はお島に買せた色々の東京|土産《みやげ》などを提げこんで、パナマを前のめりに冠《かぶ》り、お島が買ってくれた草履をはいて、軽い打扮《いでたち》で汽車に乗ったのであったが、お島も絽縮緬《ろちりめん》の羽織などを着込んで、結立ての丸髷頭で来ていた。
 足音の騒々しい構内を、二人は控室を出たり入ったりして、発車時間を待っていたが、このステーションの気分に浸っていると、自然《ひとりで》に以前の自分の山の生活が想出せて来て、涙含《なみだぐ》ましいような気持になるのであった。
「どうでしょう。西洋人は活溌《かっぱつ》でいいね」
 日光へでも行くらしい、男女《おとこおんな》の外国人の綺麗《きれい》な姿が、彼等の前を横《よこぎ》って行ったとき、お島は男に別れる自分の寂しさを蹴散《けちら》すように、そう云って、嘆美の声を放った。
「どうだね、一緒に行かないか」
 浜屋は瀬戸物のような美しい皮膚に、この頃はいくらか日焦《ひやけ》がして、目の色も鋭くなっていたが、お島が暫くでも夫婦ものの旅行と見られるのが嬉しいような、目眩《まぶし》いような気持のするほど、それは様子が好かった。
 客車に乗ってからも、お島は窓の前に立って、元気よく話を交えていたが、そのうちに汽車がするする出て行った。
「そのうち景気が直ったら、一度温泉へでも来るさ」
 浜屋は窓から顔を出して、どうかすると睫毛《まつげ》をぬらしているお島に、そんな事を言っていた。
 お島はとぼとぼと構内を出て来たが、やっぱり後髪《うしろがみ》を引《ひか》るるような未練が残っていた。
 盆が来ると、お島は顧客先《とくいさき》への配りものやら、方々への支払やらで気忙《きぜわ》しいその日その日を送っていた。そして着いてから葉書をよこした浜屋のことも忘れがちでいたが、自分たちの不幸な夫婦であったことが、一層判って来たような気がした。お島は時々その事に思い耽《ふけ》っているのであったが、それを小野田に感づかれるのが、不安であった。お島は可恥《はずか》しい自分の秘密な経験を押隠すことを怠らなかった。
 暑い盛に博覧会が閉《とざ》されてから、お島たちの居周《いまわり》の町々には、急に潮がひいたように寂しさが襲って来たと同時に、二人の店にもこれまで紛らされていたような、頽廃《たいはい》の色が、まざまざと目に見えて来た。
 多くの建物の、日に日に壊されて行く上野を、店を支えるための金策の奔走などで、毎日のようにお島は通った。やがてまた持切れそうもない今の家を一思いに放擲《ほうりだ》して了《しま》いたいような気分になっていた。
「ここは縁起がわるいから、私たちはまたどこかで新規|蒔直《まきなお》しです」
 ここへ引移って来てから、貸越の大分たまって来ている羅紗《らしゃ》の仲買などに、お島は投出したような棄鉢《すてばち》な調子で言っていた。

     九十九

 本郷の通りの方で、第四番目にお島たちが取着いて行った家を、すっかり手を入れて、洋風の可也《かなり》な店つきにすると同時に、棚《たな》に羅紗などを積むことができたのは、それから二三年もたって、店の名が相応に人に知られてからであったが、最初二人がそこへ引移っていった時には、店へ飾るものといっては何一つなかった。
 愛宕《あたご》時代に傭《やと》ったのとは、また別の方面から、お島が大工などを頼んで来たとき、二人の懐《ふとこ》ろには、店を板敷にしたり、棚を張ったりするために必要な板一枚買うだけの金すらなかったのであったが、新しいものを築き創《はじ》めるのに多分の興味と刺戟《しげき》とを感ずる彼女は、際《きわ》どいところで、思いもかけない生活の弾力性を喚起《よびおこ》されたりした。
「面倒ですから、材料も私《あっし》の方から運びましょうか」
 父親の縁故から知っている或|叩《たた》き大工のあることを想出して、そこへ駈《かけ》つけていった彼女は、仕事を拡張する意味で普請を嘱《たの》んだところで、彼は呑込顔にそう言って引受けた。
「そうしてもらいましょうよ。私達は材料を詮議《せんぎ》している隙《ひま》なんかないんだから」
 材木がやがて彼等の手によって、車で運びこまれた。
「どうです、訳あないじゃありませんか」
 大工が仕事を初めたところで、釘《くぎ》をすら買うべき小銭に事かいていたお島は、また近所の金物屋から、それを取寄せる智慧《ちえ》を欠かなかった。
「これから普請の出来あがるまで、何かまたちょいちょい貰《もら》いに来るのに、一々お金を出すのも面倒ですから、お帳面にしておいて下さいよ。少しばかりお手つけをおいてきましょう」
 お島は夜を待つまもなく、小僧の順吉に脊負《しょ》いださせた蒲団《ふとん》に替えた、少《すこし》ばかりの金のうちから、いくらか取出してそれを渡した。その蒲団は、彼女が鶴さん時代から持古している銘仙ものの代物《しろもの》であった。
「乗るか反《
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