歓楽とに憧《あこが》るる心とが、それを彼女に想像させるのであった。
 一旦田舎へ引込んで、そこで思わしいことがなくて、この頃また東京へ来て、日本橋の方の或洋酒問屋にいるとか聞いた鶴さんのことをも、時々彼女は考えた。植源のおゆうが、鶴さんの迹を追って、家を出たりなどして、あの古い植木屋の家にも、紛紜《いざこざ》の絶えなかった一頃の事情は、お島もこの頃姉の口などから洩聞《もれき》いたが、その鶴さんにも、いつか何処かで逢う機会があるような気がしていた。
 それに鶴さんや浜屋と、はっきりその人は定《きま》っていないまでも、どこかに自分が真実《ほんとう》に逢うことのできるような男が、小野田以外の周囲に、一人はあるような気がしないでもなかった。成功と活動とのみに飢え渇《かつ》えているような荒いそして硬い彼女の心にも、そんな憧憬《あこがれ》と不満とが、沁出《しみだ》さずにはいなかった。
 お島はそれからそれへと、※[#「※」は「夕」の下に「寅」、第4水準2−5−29、170−6]縁《つて》を求めて知合いになった、自分と同じような或他の職業に働いている活動の女、独立の女、人妻になっている女などから聞される恋愛談などから、自分もやっぱり同じ女であることの暗示を得るような、秘密な渇望と幻想とに、思い浸ることがあったが、動《と》もすると自分の目覚しい活動そのものすら、それらのぼんやりした影のような目的を追い求めているためですらないように思われたりした。
「お前さんは真実《ほんとう》に好かんよ」
 肉体の苦痛を堪《た》え忍ばされたあとでは、そうした男に対する反撥心《はんぱつしん》が、彼女の体中に湧《わき》かえって来た。
 根津へ引越して来てからも、小野田に妾を周旋するということを言出してから、急に嫌《きら》いになった印判屋の上さんのところへ、お島はその時の自分の感情は、すっかり忘れてしまったもののように、ふと自分の苦痛を訴えに行くことすらあった。
「ほんとうに、あの人に妾を周旋してやって下さい。そうでもしなければ、私はとても自由な働きができません」
 お島はそう言って、熱心に頼んだ。
「笑談《じょうだん》でしょう。そんな事をしたら、それこそ大変でしょう」
 上さんはお島の言うことが、総《すべ》て虚構であるとしか思えなかった。

     九十二

 そこへ引越して行ったのは、その頃開かれてあった博覧会の賑《にぎわ》いで、土地が大した盛場になっていた為であった。
 その家は、不断は眠っているような静かな根津の通りであったが、今は毎日会場からの楽隊の響が聞えたり、地方から来る色々な団体見物の宿泊所が出来たりして、近い会場の浮立った動揺《どよめき》が、ここへも遽《あわただ》しい賑かしさを漂わしていた。
 陽気がややぽかついて来たところで、小野田が出した懇《ねんご》ろな手紙に誘《いざな》われて、田舎で毎日野良仕事に憊《くたび》れている彼の父親が、見物にやって来たり、お島から書送った同じ誘引状に接して、彼女が山で懇意になった人々が、どやどや入込んで来たりした。世のなかが景気づいて来たにつれて、お島たちは自分たちの浮揚るのは、何の造作もなさそうに思えていた。
 この店を張るについての、二人の苦しい遣繰《やりくり》を少しも知らない父親は、来るとすぐ倅《せがれ》夫婦につれられて、会場を見せられて感激したが、これまで何一つ面白いものを見たこともない哀れな老人《としより》を、そうした盛り場に連出して悦ばせることが、お島に取っては、自分の感激に媚《こ》びるような満足であった。
 上野は青葉が日に日に濃い色を見せて来ていた。蟻《あり》のように四方から集ってくる群衆のうえに、梅雨《つゆ》らしい蒸暑い日が照りわたり、雨雲が陰鬱な影を投げるような日が、毎日毎日続いた。
 お島は新調の夏のコオトなどを着て、パナマを冠《かぶ》った小野田と一緒に、浮いたような気持で、毎日のように父親をつれて歩いたが、親に甘過ぎる男の無反省な態度が、時々彼女の犠牲的な心持を、裏切らないではいなかった。無知な老人《としより》の彳《たたず》んで見るところでは、莫迦孝行な小野田は、女にのろい男か何ぞのように、いつまでも気長に傍についていて、離れなかった。驚きの目を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、172−6]《みは》って、父親の立寄って行くところへは、どんな満《つま》らないものでも、小野田も嬉しそうに従《つ》いて行って見せたり、説明したりした。
「それどころじゃないんですよ。私たちはそう毎日々々親の機嫌を取っているほど、気楽な身分じゃないんですからね」
 晩方になると、きっとお仕着せを飲ませることに決《きま》っている父親への、酒の支度を疎《おろそ》かにしたといって、小野田がその時も大病人のように二階に寝ていたお島に小言をいった。彼女は筋張った顳※[#「※」は「需+頁」、第3水準1−94−6、172−13]《こめかみ》のところを押えながら、小野田を遣返《やりかえ》した。
 お島はいつもそれが起ると、生死《いきしに》の境にでもあるような苦しみをする月経時の懈《だる》さと痛さとに悶《もだ》えていた。
「それに私はこの体です。とてもお父さんの面倒はみられませんよ」

     九十三

「そんな事を言ってもいいのか」
 そう言って極《きめ》つけそうな目をして、小野田は疳癪《かんしゃく》が募って来るとき、いつもするように口髭《くちひげ》の毛根を引張っていたが、調子づいて父親を※[#「※」は「疑」の左側+欠」、第3水準1−86−31、173−4]待《もてな》していた彼女に寝込まれたことが、自分にも物足りなかった。
 お島は煩《うるさ》そうに顔を顰《しか》めていたが、小野田が悄々《すごすご》降りていったあとでも、取《とり》つき身上《しんしょう》の苦しさと、自分の心持については、何も知ってくれないような父親の挙動《ふるまい》が腹立しかった。自分にどんな腕と気前とがあるかを見せようとでもするように、紛らされていた利己的な思念が、心の底からむくれ出して来るように感じて、我儘な涙が湧立って来た。
 お島がじっと寝てもいられないような気がして、下へ降りて行ったとき、父親はもう酒をはじめていた。小野田も興がなさそうに傍に坐っていた。
「どうもすみません」
 お島は何もない餉台《ちゃぶだい》の前に坐っている父親の傍へ来て、やっぱり顔を顰めていた。
「私はこの病気が起ると、もうどうすることも出来ないんです。それに家も、これから夏は閑《ひま》ですから、お※[#「※」は「疑」の左側+欠」、第3水準1−86−31、173−15]待《もてな》しをしようと思っても、そうそうは為《し》きれないんです」
「そうともそうとも、それどこじゃない。私《わし》は一時のお客に来たものでないから」
 父親はいつまでも倅夫婦の傍で暮そうとしている自分の心持を、その時も口から洩《もら》したが、お島が積《つも》って燗《つ》ける酒に満足していられないような、強い渇望がその本来の飲慾を煽《あお》って来ると、父親はふらふらと外へ出て、この頃|昵《なじ》みになった近所の居酒屋へ入っていくのが、習慣になった。そして家でおとなしく飲んでいられないような野性的な彼の卑しい飲み癖が、一層お島を顰蹙《ひんしゅく》させた。

     九十四

 山で知合になった人達が、四五人誘いあわせて出て来てから、父親は一層お島たちのために邪魔もの扱いにされた。
 連中のうちには、その頃呼吸器の疾患のため、遊覧|旁《かたがた》博士連の診察を受けに来た浜屋の主人もあった。山の温泉宿や、精米所の主人もいた。精米所の主人は、月に一度くらいは急度《きっと》蠣殻町《かきがらちょう》の方へ出て来るのであったが、その時は上さんと子供をつれて来ていた。
 その通知の葉書を受取ったお島は、大きな菓子折などを小僧に持たせて、紋附の夏羽織を着込んで、丸髷《まるまげ》姿で挨拶のために、ある晩方その宿屋を訪ねたが、込合っていたので、連中はこの部屋にかたまって、ちょうど晩酌の膳に向いながら、陽気に高談《たかばなし》をしていた。
「えらい仕揚げたそうだね。そのせいか女振もあがったじゃねえか。好い奥様になったということ」
 精米所の主人は、浴衣《ゆかた》がけで一座の真中に坐っていながら言った。
「御笑談でしょう」
 お島は初《うぶ》らしく顔の赤くなるのを覚えた。
「お蔭でどうか恁《こう》かね。でもまだまだ成功というところへは参りません。何しろ資本のいる仕事ですからね。どうか少しお貸しなすって下さいまし。あなた方はみんな好い旦那方じゃありませんか」
 お島はそう言って、自分の来たために一層浮立ったような連中を笑わせた。
 夜景を見に出るという人達の先に立って、お島も混雑しているその宿を出たが、別れるときに家の方角を能《よ》く教えておいて、広小路まで連中を送った。
「病気って、どこが悪いんです」
 お島はまさかの時には、多少の資本くらいは引出せそうに思えていた浜屋に、二人並んであるいている時|訊《たず》ねた。浜屋がその後、ちょくちょく手を出していた山林の売買がいくらか当って、融通が利くと云う噂《うわさ》などを、お島はその土地の仲間から聞伝えている兄に聞いて知っていた。
「どこが悪いというでもないが、肺がちっと弱いから用心しろと言われたから、東京《こちら》で二三専門の博士を詮議《せんぎ》したが、事によったら当分|逗留《とうりゅう》して、遊び旁《かたがた》注射でもしてみようかと思う」
「それじゃ奥さんのが移ったのでしょう。私は一緒にならないで可《よ》かったね」
 お島は可怕《こわ》そうに言ったが、やっぱりこの男を肺病患者扱いにする気には成得《なりえ》なかった。
「あんたが肺病になれば、私が看病しますよ。肺病なんか可怕《おっかな》くて、どうするもんですか」
「今じゃそうも行かない。これでも山じゃ死《しの》うとしたことさえあったっけがね」
「おお厭だ」お島は思出してもぞっとするような声を出した。「そんな古いことは言《いい》っこなし。あなたは余程《よっぽど》人が悪くなったよ」

     九十五

 一日の雑沓《ざっとう》と暑熱に疲れきったような池の畔《はた》では、建聯《たてつらな》った売店がどこも彼処《かしこ》も店を仕舞いかけているところであったが、それでもまだ人足《ひとあし》は絶えなかった。水に臨んだ飲食店では、人が蓄音器に集っていたり、係のものらしい男が、粗野な調子で女達を相手に酒を飲んでいたりした。暗闇の世界に、秘密の歓楽を捜しあるいているような、猥《みだ》らな女と男の姿や笑声が聞えたりした。
 お島はその間を、ふらふらと寂しい夢でも見ているような心持で歩いていた。会場のイルミネーションはすっかり消えてしまって、無気味な広告塔から、蒼《あお》い火が暗《やみ》に流れていたりした。
 浜屋の主人が肺病になったと云うことが、ふと彼女の心に暗い影を投げているのに気がついた。自分の世界が急に寂しくなったようにも感じた。しかし離れているときに考えていたほど、自分がまだあの男のことを考えているとは思えなかった。今のあの男とは全く懸はなれたその頃の山の思出が、微《かす》かに懐《なつか》しく思出せるだけであった。あの時分の若い痴呆《ちほう》な恋が、いつの間にか、水に溶《とか》されて行く紅の色か何ぞのように薄く入染《にじ》んでいるきりであった。
 自分の若い職人が一人、順吉というお島の可愛がって目をかけている小僧と一緒に、熱い仕事場の瓦斯《ガス》の傍を離れて、涼しい夜風を吸いに出ているのに、ふと観月橋の袂《たもと》のところで出会《でっくわ》した。
「どうしたえ、田舎のお爺さんは」お島は順吉に訊ねた。
 二人はにやにや笑っていた。
「今夜も酔っぱらっているんだろう」
「ええ何だかやっぱり外で飲んで来たようでしたよ」
 お島はこの順吉から、父親が自分の嫁振を蔭で非《くさ》して、不平を言っていることなどを、ちょいちょい耳にしていた
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