物《しろもの》であった。そうすれば試用の間、一時また支払いが猶予される訳であった。
「こんな際《きわ》どいことでもしなかった日には、私たちはとてもやって行けやしません。成功するには、どうしたってヤマを張る必要があります」
 お島はその時もそう言って、自分の気働きを矜《ほこ》ったが、何の気もなさそうに、それに腰かけている小野田の様子が、間抜らしく見えた。
 がたがたと動いていたミシンの音が止ると、彼は裁板《たちいた》の前に坐って、縫目を熨《の》すためにアイロンを使いはじめた。
「ふむ、莫迦だね」
 お島は無性に腹立しいような気がして、腕を組みながら溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
「一生職人で終る人間だね。それでも田を踏んで暮す親よりかいくらか優《まし》だろう」
「生意気を言うな。手前の親がどれだけ立派なものだ。やっぱり土弄《つちいじ》りをして暮しているじゃないか」
「ふむ、誰がその親のところへ、籍を入れてくれろと頼みに行ったんだ。私の親父はああ見えても産れが好いんです。昔はお庄屋さまで威張っていたんだから。それだって私は親のことなんか口へ出したことはありゃしない」
「お前がまた親不孝だから、親が寄せつけないんだ。そう威張ってばかりいても得《とく》は取れない。ちっとはお辞儀をして、金を引出す算段でもした方が、※[#「※」は「しんにょう+向」、第3水準1−92−55、162−10]《はるか》に悧巧《りこう》なんだ」
 小野田はいつもお島に勧めているようなことを、また言出した。
「意気地のないことを言っておくれでないよ。私は通りへ店を持つまでは、親の家へなんか死んでも寄りつかない意《つもり》だからね」
「だから、お前は商売気がなくて駄目だというのだよ」
 仕事が一と片着け片着く時分に、二人はまたこんな相談に耽《ふけ》りはじめた。

     八十八

 上海《シャンハイ》へ行くつもりで、N――市へ立つ前に、一度|顔出《かおだし》したことのある自分の生家《さと》の方へ、小野田がお島を勧めて、贈物などを持って、更《あらた》めて一緒に訪ねて行ってから、続いて一人でちょいちょい両親《ふたおや》の機嫌《きげん》を取りに行ったりしていた。
「これだけの地面は私の分にすると、御父さんが言うんですけれどね」
 最初二人で行ったとき、お島は庭木のどっさり植《うわ》っている母屋の方の庭から、附近に散かっている二三箇所の持地を、小野田と一緒に見廻りながら、五百坪ばかりの細長い地所へ小野田を連れて行って言った。
 雑木の生茂《おいしげ》っているその地所には、庭へ持出せるような木も可也にあった。暗い竹藪《たけやぶ》や荒れた畑地もあった。周囲《まわり》には新しい家《いえ》が二三軒建っていた。
「ふむ」小野田は驚異の目を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、163−9]《みは》って、その木立のなかへ入って行った。夏草の生茂った木立の奥は、地面がじめじめしていて、日の光のとどかぬような所もあった。
「この辺の地所は坪どのくらいのものだろう」
 小野田はそこを出てお島の傍へ来ると、打算的の目を耀《かがや》かして訊《たず》ねた。
「どの位だかね。今じゃ十円もするでしょうよ」
 お島は※[#「※」は「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45、163−14]《とぼ》けたような顔で応《こた》えたが、この地面が自分の有《もの》になろうとは思えなかった。
 生家《さと》では二三年のあいだ家を離れて、其方《そっち》こっち放浪して歩いていた兄が、情婦《おんな》に死訣《しにわか》れて、最近にいた千葉の方から帰って来ていた。一時|生家《さと》へ還っていた嫁も、その子供をつれて、久振で良人《おっと》と一緒に暮していた。兄は一時悪い病に罹《かか》ってから、めっきり健康が衰え、お島と山で世帯を持っていた頃の元気もなくなっていた。お島はあの頃の山の生活と、二三度そこで交際《つきあ》った兄の情婦《おんな》の身のうえなどを想い出させられた。悪い病気にかかったというその情婦は、どこへ行っても兄に附絡《つきまと》われていて、好いこともなくて旅で死んでしまった。その時は、何の気もなしに傍観していた二人の情交《なか》や心持が、お島にはいくらか解るように思えて来たが、どこが好くて、あの女がそんなに男のために苦労したかが訝《いぶ》かられた。
「あの時は、兄さんはほんとに私をひどい目に逢わしたね」
 お島は長いあいだの経過を考えて、何の温かみも感ずることのできない恣《ほしいま》まな兄との接触に、失望したように言出した。
 兄はその頃のことは想い出しもしないような顔をしていた。お島たちの寄ついて来ることを、余り悦んでもいないらしかった。
「あれはああ云う男です。人が悪いっていうんでもないけれど、人情はないんですね」
「早くあの地面を自分のものに書きかえておくようにしなくちゃ駄目だよ」
 小野田は、お島の投遣《なげやり》なのを牾《もどか》しそうに言った。
「あの地面も、今はどうなっているんだか。あの御母《おっか》さんの生きているうちは、まあ私の手にはわたらないね」
「それもお前が下手だからだよ」
 小野田はそう言いながら、望みありげに家へ入って来た。

     八十九

 小野田がこの家に信用を得るために、母親の傍に坐って、話込んでいるあいだ、お島は擽《くすぐ》ったいような、いらいらしい気持を紛らせようとして、そこを離れて、子供を揶揄《からか》ったり、嫂《あによめ》と高声《たかごえ》で話したりしていた。
「家じゃ島が一番親に世話をやかせるんでございますよ。これまでに、幾度《いくたび》家を出たり入ったりしたか知れやしません」
 母親はお島が傍についているときも、そんな事を小野田に言って聴《きか》せていたが、彼女の目には、これまでお島が干係《かんけい》した男のなかで、小野田が一番頼もしい男のように見えた。取澄してさえいれば、口髭《くちひげ》などに威のある彼のがっしりした相貌《そうぼう》は、誰の目にも立派な紳士に見えるのであった。小野田は切《きり》たての脊広《せびろ》などを着込んで、のっしりした態度を示していた。
 お島は自分の性得《しょうとく》から、N――市へ立つ前に、この男のことをその田舎では一廉《ひとかど》の財産家の息子ででもあるかのように、父や母の前に吹聴しずにはいられなかった。それで小野田もその意《つもり》で、母親に口を利いていた。
「この人の家は、それは大したもんです」
 お島は母親を威圧するように、今日も皆《みんな》が揃《そろ》っている前で言ったが、小野田はそれを裏切らないように、口裏を合せることを忘れなかった。
「いや私の家も、そう大した財産もありませんよ。しかしそう長く苦しむ必要もなかろうと思います。夫婦で信用さえ得れば、そのうちにはどうにかなるつもりでいますので」
 母親の安心と歓心を買うように、小野田は言った。
 お島はその傍に、長くじっとしていられなかった。自分を信用させようと骨を折っている、男の狡黠《わるごす》い態度も蔑視《さげす》まれたが、この男ばかりを信じているらしい、母親の水臭い心持も腹立しかった。
 嫂は、この四五年の良人《おっと》の放蕩《ほうとう》で、所有の土地もそっちこっち抵当に入っていることなどを、蔭でお島に話して聴せた。
「御父さんが、あすこの地面を私にくれるなんて言っていましたっけがね、あれはどうする気でしょうね」
 お島は嫂の口占《くちうら》を引いてでも見るように、そう言ってみた。
「へえ、そんな事があるんですか。私はちっとも知りませんよ」
「男だけには、それぞれ所有《もち》を決めてあるという話ですけれどね」
 お島はこの場合それだけのものがあれば、一廉《ひとかど》の店が持てることを考えると、いつにない慾心の動くのを感じずにはいられなかったが、家を出て山へ行ってから、父親の心が、年々自分に疎《うと》くなっていることは争われなかった。
「行きましょうよ」
 お島はまだ母親の傍にいる男を急《せき》たてて、やっと外へ出た。

     九十

 狭い三畳での、窮屈で不自由な夫婦生活からと、男か女かの孰《いず》れかにあるらしい或生理的の異常から来る男の不満とが、時とするとお島には堪えがたい圧迫を感ぜしめた。
「へえ、そんなもんですかね」
 若い亭主を持っている印判屋の上さんから、男女間の性慾について、時々聞かされることのあるお島は、それを不思議なことのように疑い異《あやし》まずにはいられなかった。
「じゃ、私が不具《かたわ》なんでしょうかね」
 お島はどうかすると、男の或《ある》不自然な思いつきの要求を満すための、自分の肉体の苦痛を想い出しながら、上さんに訊《き》いた。
「でもこれまで私は一度も、そんな事はなかったんですからね」
 お島はどんな事でも打明けるほどに親しくなった上さんにも、これまでに外に良人を持った経験のあることを話すのに、この上ない羞恥《しゅうち》を感じた。
「真実《ほんとう》は、私はあの人が初めじゃないんですよ」
「それじゃ旦那が悪いんでしょうよ」
「でも、あの人はまた私が不可《いけな》いんだと言うんですの。だから私もそうとばかり思っていたんですけれど……真実《ほんと》に気毒《きのどく》だと思っていたんです」
「そんな莫迦なことってあるもんじゃ有りませんよ、お医者に診ておもらいなさい」
 上さんは、真実《まったく》それが満《つま》らない、気毒な引込思案であるかのように、色々の人々の場合などを話して勧めた。
「まさか……極《きまり》がわりいじゃありませんか」
 お島は耳朶《みみたぶ》まで紅くなった。若い男などを有《も》っている猥《みだら》な年取った女のずうずうしさを、蔑視《さげす》まずにはいられなかったが、やっぱりその事が気にかかった。人並でない自分等夫婦の、一生の不幸ででもあるように思えたりした。
 朝になっても、体中が脹《は》れふさがっているような痛みを感じて、お島はうんうん唸《うな》りながら、寝床を離れずにいるような事が多かった。そして朝方までいらいらしい神経の興奮しきっている男を、心から憎く浅猿《あさま》しく思った。
「こんな事をしちゃいられない」
 お島は註文を聞きに廻るべき顧客先《とくいさき》のあることに気づくと、寝床を跳《はね》おきて、身じまいに取かかろうとしたが、男は悪闘に疲れたものか何ぞのように、裁板の前に薄ぼんやりした顔をして、夢幻《ゆめうつつ》のような目を目眩《まぶ》しい日光に瞑《つぶ》っていた。
「それじゃ私が旦那に一人、好いのをお世話しましょうか」
 上さんは、笑談《じょうだん》らしく妾《めかけ》の周旋を頼んだりする小野田に言うのであったが、お島はやっぱりそれを聞流してはいられなかった。
「そうすればお上さんもお勤めがなくて楽でしょう」
「莫迦なことを言って下さるなよ。妾なんかおく身上《しんしょう》じゃありませんよ」
 お島は腹立しそうに言った。

     九十一

 五六箇月の間に、そこの仮店《かりみせ》で夫婦が稼ぎ得た収入が二千円近くもあったところから、狭苦しい三畳にもいられなかった二人が、根津の方へ店を張ることになってからも、外の活動に一層の興味を感じて来たお島は、時々その事について、親しい友達に秘密な自分の疑いを質《ただ》しなどしたが、それをどうすることもできずに、忙しいその日その日を紛らされていた。
 生理的の不権衡《ふけんこう》から来るらしい圧迫と、失望とを感ずるごとに、お島は鶴さんや浜屋のことが、心に蘇《よみが》えって来るのを感じた。
「成功したら、一度山へ行ってあの人にも逢ってみたい」
 そんな秘密の願が、気忙《きぜわ》しい顧客《とくい》まわりに歩いている時の彼女の心に、どうかすると、或異常な歓楽でも期待され得るように思い浮かんだりした。一つは、妾になら為《し》ておこうといったことのある、その男への復讐心《ふくしゅうしん》から来る興味もあったが、現在の自分等夫婦には、欠けているらしい或要求と
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