の手がしばらく空《す》きかかったところで、その日も幾日振《いくかぶり》かで昼からサンプルをさげて出て行ったが、晩方に帰って来ると、お秀と一緒に店の方にいる川西にそう言って声かけた。
「為様がないね、私がなまけると直ぐこれだもの」お島は出てゆく時も、これと云う目星しい仕事もない工場の様子を見ながら言っていたが、出れば必ず何かしら註文を受けて来るのであった。中には自分の懇意にしている人のを、安く受けて来たのだと云って、小野田との相談で、店のものにはせず、自分たちだけの儲仕事《もうけしごと》にするものも時にはあった。そんなものを、小野田は店の仕事の手隙《てすき》に縫うことにしていたが、川西はそれを余り悦《よろこ》ばないのであった。
「ほんとに好い腕だが、惜しいもんだね」
 川西は、独《ひと》り店頭《みせさき》にいた小僧を、京橋の方へ自転車で用達《ようたし》に出してから、註文先の話をしてお島に言った。彼はもう四十四五の年頃で、仕入ものや請負もので、店を大きくして来たのであったが、お島たちが入って来てから、上物の註文がぼつぼつ入るようになっていた。
 川西は晩酌をやった後で、酒くさい息をふいていた。工場では皆《みん》な夕方から遊びに出て行って、誰もいなかった。
「そんな腕を持っていながら、名古屋くんだりまで苦労をしに行くなんて、余程《よっぽど》可笑《おかし》いよ」
 川西は、傍に附絡《つきまと》っているお秀をも、湯へ出してやってから、時々口にすることをその時もお島に言出した。
「ですから私も熟々《つくづく》厭になって了ったんです。あの時|疾《とっく》に別れる筈だったんです。でもやっぱりそうも行かないもんですからね」
「小野田さんと二人で、ここでついた得意でも持って出て、早晩|独立《ひとりだち》になるつもりで居るんだろうけれど、あの腕じゃまず難《むずか》しいね」
「そうですとも。これまで散々失敗して来たんですもの」
「どうだね、それよりか小野田さんと別れて、一つ私と一緒に稼《かせ》ぐ気はないかね」
 川西はにやにやしながら言った。
「御笑談でしょう」お島は真紅《まっか》になって、「貴方《あなた》にはお秀さんという人がいるじゃありませんか」
「あんなものを……」川西はげたげた笑いだした。「どこの馬の骨だか解りもしねえものを、誰が上さんなぞにする奴があるもんか」
「でも好い人じゃありませんか。可愛がっておあげなさいまし。私みたような我儘《わがまま》ものはとても駄目です」
 お島はそう言って、茶《ちゃ》の室《ま》を通って工場の方へ入って行くと、汗ばんだ着物の着替に取りかかった。蒸暑い工場のなかは綺麗に片着いて、電気がかっかと照っていた。

     八十四

 九時頃に小野田が外から帰って来たとき、駭《おどろ》かされたお島の心は、まだ全く鎮《しずま》らずにいた。人品や心の卑しげな川西に、いつでも誰にも動く女のように見られたのが可恥《はずか》しく腹立しかった。
「へえ、私がそんな女に見えたんですかね。そんな事をしたら、あの物堅い父に私は何といわれるでしょう」
 お島は迹《あと》から附絡《つきまと》って来る川西の兇暴な力に反抗しつつ、工場の隅《すみ》に、慄然《ぞっ》とするような体を縮めながらそう言って拒んだ。
 髯《ひげ》の延びた長い顎《あご》の、目の落窪《おちくぼ》んだ川西の顔が、お島の目には狂気《きちがい》じみて見えた。
「可《い》けません可けません、私は大事の体です。これから出世しなくちゃなりません。信用を墜《おと》しちゃ大変です」お島は片意地らしく脅《おど》しつけるように言って、筋張った彼の手をきびしく払退《はらいの》けた。
 劇《はげ》しい争闘がしばらく続いた。
 婉曲《えんきょく》としおらしさとを欠いた女の態度に、男の顔を潰《つぶ》されたと云って、川西がぷりぷりして二階へあがって行ってから、お島は腕節《うでぶし》の痛みをおさえながら、勝矜《かちほこ》ったものの荒い不安を感じた。
 暫《しばら》くすると、白粉をこてこて塗って、湯から帰って来たお秀が、腕を組んで、ぼんやり店頭《みせさき》に彳《たたず》んでいるお島に笑顔を見せて、奥へ通って行った。
「ぽんつくだな」お島はそう思いながら、女の顔を見返しもせずに黙っていた。何のことをも感づくことができずに、全く満足し切っているように鈍い、その癖どこかおどおどしている女の様子に、妄《むやみ》に気がいらいらして、顔の筋肉一つすら素直に働かないのであった。
「小野田が帰ったら、今の始末を残らず吩咐《いいつ》けよう。そして今からでも二人でここを出てやろう」
 お島はそう思いながら、そこに立ったまま彼の帰りを待っていた。外は秋らしい冷《ひやや》かな風が吹いて、往来を通る人の姿や、店屋々々の明《あかり》が、厭に滅入って寂しく見えた。浜屋や鶴さんのことが、物悲しげに想い出されたりした。
 その晩、小野田は二階でしばらく川西と何やら言合っていたが、やがて落着のない顔をして降りて来ると、店にいるお島の傍へ寄って来た。
「店が閑《ひま》でとても置ききれないから、気の毒だけれど、己たちに今から出てくれというんだがね」
 小野田は言出した。
「ふむ」お島はまだ神経が突っ張っていて、こまこました話をする気にはなれなかった。
「己《おれ》たちが自分の仕事をするので、それも気に加《くわ》んらしい」
「どうせそうだろうよ」お島は荒い調子で冷笑《あざわら》った。
「出ましょう出ましょう。言われなくたって、此方《こっち》から出ようと思っていたところだ」

     八十五

 翌日朝|夙《はや》くから、お島はぐずぐずしている小野田を急立《せきた》てて家を捜しに出た。
「また何かお前が大将の気に障《さわ》ることでも言ったんじゃないか」
 小野田は昨夜《ゆうべ》も自分たちの寝室《ねま》にしている茶《ちゃ》の室《ま》で、二人きりになった時、そう言ってお島を詰《なじ》ったのであったが、今朝もやっぱりそれを気にしていた。
「私があの人に何を言うもんですか」お島は顔をしかめて煩《うるさ》そうに応答《うけごたえ》をしていたが、出る先へ立って、細《こまか》い話をして聞かす気にもなれなかった。
「それどころか、私はこの店のために随分働いてやっているじゃありませんか」
「でも何か言ったろう」
「煩《うるさ》いよ」お島は眉《まゆ》をぴりぴりさせて、「お前さんのように、私はあんなものにへっこらへっこらしてなんかいられやしないんだよ」
「だがそうは行かないよ。お前がその調子でやるから衝突するんだ」
「ふむ。私よりかお前さんの方が、余程《よっぽど》間抜なんだ。だから川西なんかに莫迦《ばか》にされるんです。もっとしっかりするが可《い》いんだ」
 それで二人は半日ほど捜しあるいて、漸《やっ》と見つけた愛宕《あたご》の方の或る印判屋の奥の三畳|一室《ひとま》を借りることに取決め、持合せていた少《すこし》ばかりの金で、そこへ引移ったのであった。
 そこは見附《みつき》の好い小綺麗《こぎれい》な店屋であった。お島はその足で直ぐ、差当り小野田の手を遊ばさないように、仕事を引出しに心当りを捜しに出たが、早速仕事に取かかるべく少しばかり月賦の支払をしてあったミシンを受取の交渉のために、川西へ出向いていった小野田が、失望して――多少|怒《いかり》の色を帯びて帰って来た頃には、彼女も一二枚の直しものを受けて来て、彼を待受けていた。
「どうです、同情がありますよ。すぐ仕事が出ましたよ。だから、ここでうんと働いて下さいよ」
 人に対する反抗と敵愾心《てきがいしん》のために絶えず弾力づけられていなければ居《い》られないような彼女は、小野田の顔を見ると、いきなり勝矜《かちほこ》ったように言った。
 部屋にはもう電燈がついて、その晩の食物《たべもの》を拵《こしら》えるために、お島は狭い台所にがしゃがしゃ働いていた。印判屋の婆さんとも、狎々《なれなれ》しい口を利くような間《なか》になっていた。
「それでミシンはどうしたんです」
「それどころか、川西はお前のことを大変悪く言っていたよ。そして己にお前と別れろと言うんだ」
「ふむ、悪い奴だね」お島は首を傾《かし》げた。「畜生《ちきしょう》、私を怨《うら》んでいるんだ。だがミシンがなくちゃ為様《しよう》がないね」
 飯をすますと直ぐ、お島が通りの方にあるミシンの会社で一台註文して来た機械が、明朝《あした》届いたとき、二人は漸《やっ》と仕事に就くことができた。

     八十六

 住居の手狭なここへ引移ってから、初めて世帯《しょたい》を持った新夫婦か何ぞのように、二人は夕方になると、忙しいなかをよく外を出歩いた。
 川西を出たときから、新しい愛執が盛返されて来たようなお島たちはそれでもその月は可也にあった収入で、涼気《すずけ》の立ちはじめた時候に相応した新調の着物を着たり着せたりして、打連れて陽気な人寄場《ひとよせば》などへ入って行った。
 行く先々で、その時はまるで荷厄介のように思って、惜げもなく知った人にくれたり、棄値《すてね》で売ったり又は著崩《きくず》したりして、何一つ身につくもののなかったお島は、少しばかり纏《まと》まった収入の当がつくと、それを見越して、月島にいる頃から知っていた呉服屋で、小野田が目をまわすような派手なものを取って来て、それを自分に仕立てて、男をも着飾らせ、自分にも着けたりした。
「己たちはまだ着物なんてとこへは、手がとどきやしないよ。成算なしに着物を作って、困るのは知れきっているじゃないか」
 着ものなどに頓着《とんじゃく》しない小野田は、お島の帰りでもおそいと、時々近所のビーヤホールなどへ入って、蓄音機を聴きながら、そこの女たちを相手に酒を飲んでいては、お島に喰ってかかられたりしたが、やっぱり自分の立てた成算を打壊《ぶちこわ》されながら、その時々の気分を欺かれて行くようなことが多かった。
「あの御父《おとっ》さんの産んだ子だと思うと、厭になってしまう。東京へでも出ていなかったら、貴方《あんた》もやっぱりあんなでしょうか」
 お島はにやにやしている小野田の顔を眺めながら笑った。
「莫迦《ばか》言え」小野田はその頃延しはじめた濃い髭《ひげ》を引張っていた。
「だからビーヤホールの女なぞにふざけていないで、少しきちんとして立派にして下さいよ。あんなものを相手にする人、私は大嫌い、人品《じんぴん》が下りますよ」
 お島はどうかすると、父親の面差《おもざし》の、どこかに想像できるような小野田の或卑しげな表情を、強《し》いて排退《はねの》けるようにして言った。小野田が物を食べる時の様子や、笑うときの顔容《かおつき》などが、殊《こと》にそうであった。
「子が親に似るのに不思議はないじゃないか。己は間男《まおとこ》の子じゃないからな」
 小野田は心から厭そうにお島にそれを言出されると、苦笑しながら慍然《むっ》として言った。
「間男の子でも何でも、あんな御父さんなんかに肖《に》ない方が可《い》いんですよ」
「ひどいことを言うなよ。あれでも己を産んでくれた親だ」
 小野田は終《しまい》に怒りだした。
「お前さんはそれでも感心だよ。あんな親でも大事にする気があるから。私なら親とも思やしない」

     八十七

 そんな気持の嵩《こう》じて来たお島には、自分一人がどんなに焦燥《やきもき》しても、出世する運が全く小野田にはないようにさえ考えられてきた。彼の顔が無下《むげ》に卑しく貧相に見えだして来た。ビーヤホールの女などと、面白そうにふざけていることの出来る男の品性が、陋《さも》しく浅猿《あさま》しいもののように思えた。
「己はまた親の悪口《あっこう》なぞ云う女は大嫌いだ」
 顔色を変えて、お島の側を離れると、小野田は黙って仕事に取りかかろうとして、電気を引張って行ってミシンを踏みはじめた。
 そのミシンは、支払うべき金がなかったために、お島が機転を利《き》かして、機械の工合がわるいと言って、新しく取替えたばかりの代
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