路費の出来そうに言っていた父親の家への同行を、お島は二度も三度も迫ってみたが、小野田は不快な顔をして、いつもそれを拒んだ。
 八九年前に、効性《かいしょ》ものの妻に死訣《しにわか》れてから、酒飲みの父親は日に日に生活が荒《すさ》んで行った。妻の働いているうちは、どうか恁《こう》か持堪《もちこた》えていた家も、古くから積り積りして来ている負債の形《かた》に取られて、彼は細《ささや》かな小屋のなかに、辛《かろ》うじて生きていた。
 到頭お島がつれられて行ったときに、彼は麦や空豆の作られた山畑の中に、熱い日に照されて土弄《つちいじ》りをしていたが、無智な顔をして畑から出て来る汚いその姿を見たときには、お島は慄然《ぞっ》とするほど厭であった。一緒に行った小野田に対する軽蔑《けいべつ》の念が一時に彼女の心を凍らしてしまった。

     七十九

 それでお島は、小野田が自分をつれて来なかった理由が解ったような気がして、父親が本意《ほい》ながるのも肯《き》かずに、その日のうちにN――市へ引返して来たのであった。自分のこれまでがすっかり男に瞞《だま》されていたように思われて、腹立しかったが、小野田が自分達のことをどんな風に父親に話しているかと思うと、擽《くすぐ》ったいような滑稽《こっけい》を感じた。
 空濶《くうかつ》な平野には、麦や桑が青々と伸びて、泥田をかえしている農夫や馬の姿が、所々《ところどころ》に見えた。砂埃《すなぼこり》の立つ白い路《みち》を、二人は鈍《のろ》い俥《くるま》に乗って帰って来たが、父親が侑《すす》めてくれた濁酒に酔って、俥の上でごくりごくりと眠っている小野田の坊主頸《ぼうずえり》をした大きい頭脳《あたま》が、お島の目には惨《みじめ》らしく滑稽にみえた。
 この貧しげな在所から入って来ると、着いた当時は鈍《のろ》くさくて為方《しかた》のなかった寂しい町の状《さま》が、可也|賑《にぎや》かで、豊かなもののように見えて来た。大きい洋風の建物が目についたり、東京にもみられないような奥行の深そうな美しい店屋や、洒落《しゃれ》た構《かまえ》の料理屋なども、物珍しく眺《なが》められた。妹の住《すま》っている静な町には、どんな人が生活しているかと思うような、門構の大きな家や庭がそこにも此処《ここ》にもあった。
 小野田の話によると、父親の財産として、少《すこし》ばかりの山が、それでもまだ残っていると云うのであった。その山を売りさえすれば、多少《いくらか》の金が手につくというのであった。そしてそうさせるには、二人で機嫌《きげん》を取って、父親を悦《よろこ》ばせてやらなければならないのである。
「そんな気の長いことを言っていた日には、いつ立てるか解りやしないじゃないか」
 お島はその晩も二階で小野田と言争った。時々他国の書生や勤め人をおいたりなどして、妹夫婦が細い生活の補助《たすけ》にしているその二階からは、町の活動写真のイルミネーションや、劇場の窓の明《あかり》などが能《よ》く見えた。四下《あたり》には若葉が日に日に繁《しげ》って、遠い田圃《たんぼ》からは、喧《かまびす》しい蛙《かえる》の声が、物悲しく聞えた。春の支度でやって来た二人には、ここの陽気はもう大分暑かった。小野田はホワイト一枚になって寝転んでいたが、昔住慣れた町で、巧く行きさえすれば、お島と二人でここで面白い暮しができそうに思えた。上海《シャンハイ》くんだりまで出かけて行くことが、重苦しい彼の心には億劫《おっくう》に想われはじめていた。
「厭《いや》なこった、こんな田舎の町なんか、成功したって高が知れている。東京へ帰ったって威張れやしないよ」そう言って拒むお島の空想家じみた頭脳《あたま》には、ぼろい金儲けの転がっていそうな上海行が、自分に箔《はく》をつける一廉《ひとかど》の洋行か何ぞのように思われていた。

     八十

 其処《そこ》をも散々|遣散《やりちら》してN――市を引揚げて、どこへ落着く当もなしに、暑い或日の午後に新橋へ入って来たとき、二人の体には、一枚ずつ著《つ》けたもののほか何一つすら著いていなかった。
 鼻息の荒いお島たちは、人の気風の温和でそして疑り深いN――市では、どこでも無気味《ぶきみ》がられて相手にされなかった。一月二月《ひとつきふたつき》小野田の住込んでいた店《たな》では、毎日のように入浸《いりびた》っていたお島は、平和の攪乱者《こうらんしゃ》か何ぞのように忌嫌《いみきら》われ、不謹慎な口の利き方や、遣《やり》っぱなしな日常生活の不検束《ふしだら》さが、妹たち周囲の人々から、女雲助か何かのように憚《はばか》られた。著いて間もない時分の彼女から、東京風の髪をも結ってもらい、洗濯や針仕事にも働いてもらって、頭髪《あたま》のものや持物などを、惜気もなげにくれてもらったりしていた妹は、帯や下駄や時々の小遣いの貸借《かしかり》にも、彼女を警戒しなければならないことに気がついた。
「そんなに吝々《けちけち》しなさんなよ、今に儲けてどっさりお返ししますよ」
 それを断られたとき、お島はそう云って笑ったが、土地の人たちの腹の見えすいているようなのが腹立しかった。自分の腕と心持とが、全く誤解されているのも業腹《ごうはら》であった。
 小野田にも信用がなく、自分にも働き勝手の違ったような、その土地で、二人は日に日に上海行の計画を鈍らされて行った。二人は小野田が数日のあいだに働いて手にすることのできた、少しばかりの旅費を持って、辛々《からがら》そこを立ったのであった。
 一日込合う暑い客車の瘟気《うんき》に倦《う》みつかれた二人が、停車場の静かな広場へ吐出されたのは、夜ももう大分遅かった。
「どこへ行ったものだろうね」
 青い火や赤い火の流れている広告塔の前に立って、しっとりした夜の空気に蘇《よみが》えったとき、お島はそこに跪坐《しゃが》んでいる小野田を促した。
 前《せん》に働いていた川西という工場のことを、小野田は心に描いていたが、前借などの始末の遣《やり》っぱなしになっている其処へは行きたくなかった。上海行を吹聴したような人の方へは、どこへも姿を見せたくなかった。

     八十一

 不安な一夜を、芝口の或|安旅籠《やすはたご》に過して、翌日二人は川西へ身を寄せることになるまで、お島たちは口を捜すのに、暑い東京の町を一日|彷徨《ぶらつ》いていた。
 最後に本郷の方を一二軒|猟《あさ》って、そこでも全く失望した二人が、疲れた足を休めるために、木蔭に飢えかつえた哀れな放浪者のように、湯島《ゆしま》天神の境内へ慕い寄って来たのは、もうその日の暮方であった。
 漸《ようよ》う日のかげりかけた境内の薄闇には、白い人の姿が、ベンチや柵《さく》のほとりに多く集っていた。葉の黄ばみかかった桜や銀杏《いちょう》の梢《こずえ》ごしに見える、蒼い空を秋らしい雲の影が動いて、目の下には薄闇《うすぐら》い町々の建物が、長い一夏の暑熱に倦み疲れたように横《よこた》わっていた。二人は仄暗《ほのぐら》い木蔭のベンチを見つけて、そこに暫く腰かけていた。涼しい風が、日に焦《や》け疲れた二人の顔に心持よく戦《そよ》いだ。
 水のような蒼い夜の色が、段々|木立際《こだちぎわ》に這い拡がって行った。口も利かずに黙って腰かけているお島は、ふと女坂を攀登《よじのぼ》って、石段の上の平地へ醜い姿を現す一人の天刑病《てんけいびょう》らしい躄《いざり》の乞食が目についたりした。
 石段を登り切ったところで、哀れな乞食は、陸《おか》の上へあがった泥亀《どろがめ》のように、臆病らしく四下《あたり》を見廻していたが、するうちまた這い歩きはじめた。そして今夜の宿泊所を求めるために、人影の全く絶えた、石段ぎわの小さい祠《ほこら》の暗闇の方へいざり寄って行った。
「ちょっと御覧なさいよ」お島は小野田に声かけて振顧《ふりむ》いた。
 今まで莨を喫《す》っていた小野田は、ベンチの肱《ひじ》かけに凭《もた》れかかっていつか眠っていた。
「この人は、為様がないじゃないの」お島は跳《はね》あがるような声を出した。
「行きましょう行きましょう。こんな所にぐずぐずしていられやしない」お島は慄《ふる》えあがるようにして小野田を急立《せきた》てた。
 二人は痛い足を引摺《ひきず》って、またそこを動きだした。
「何でもいいから芝へ行きましょう。恁《こ》うなれば見えも外聞もありゃしない」お島はそう言って倦《う》み憊《くたび》れた男を引立てた。
 食物《たべもの》といっては、昼から幾《ほと》んで[#「で」は底本どおり、岩波文庫版では「ど」、151−11]何をも取らない二人は、口も利けないほど饑《う》え疲れていた。
 川西の店へ立ったのは、その晩の九時頃であった。

     八十二

 長い漂浪の旅から帰って来たお島たちを、思いのほか潔《きよ》く受納れてくれた川西は、被服廠《ひふくしょう》の仕事が出なくなったところから、その頃職人や店員の手を減して、店がめっきり寂しくなっていた。
 そこへ入って行ったお島は、久しい前から、世帯崩《しょたいくず》しの年増女《としまおんな》を勝手元に働かせて、独身で暮している川西のために、時々上さんの為《す》るような家事向の用事に、器用ではないが、しかし活溌《かっぱつ》な働き振を見せていた。
 前《せん》にいた職人が、女気のなかったこの家へ、どこからともなく連れて来て間もなく、主人との関係の怪しまれていたその年増は、渋皮の剥《む》けた、色の浅黒い無智な顔をした小躯《こがら》の女であったが、お島が住込むことになってから、一層綺麗にお化粧《つくり》をして、上さん気取で長火鉢の傍に坐っていた。
 始終|忙《せわ》しそうに、くるくる働いている川西は、夜は宵の口から二階へあがって、臥床《ふしど》に就いたが、朝は女がまだ深い眠にあるうちから床《とこ》を離れて、人の好《よ》い口喧《くちやかま》しい主人として、口のわるい職人や小僧たちから、蔭口を吐《つ》かれていた。
 お島は女が二階から降りて来ぬ間に、手捷《てばし》こくそこらを掃除したり、朝飯の支度に気を配ったりしたが、寝恍《ねぼ》けた様な締《しまり》のない笑顔をして、女が起出して来る頃には、職人たちはみんな食膳《しょくぜん》を離れて、奥の工場で彼女の噂《うわさ》などをしながら、仕事に就いていた。
 彼らが食事をするあいだ、裏でお島の洗い灑《すす》ぎをしたものが、もう二階の物干で幾枚となく、高く昇った日に干されてあった。
「どうも済みませんね」
 ばけつ[#「ばけつ」に傍点]をがらがらいわせて、働いているお島の姿を見ると、それでも女は、懈《だる》そうな声をかけて、日のじりじり照はじめて来た窓の外を眺めていた。毛並のいい頭髪《あたま》を銀杏返《いちょうがえ》しに結って、中形《ちゅうがた》のくしゃくしゃになった寝衣《ねまき》に、紅《あか》い仕扱《しごき》を締めた姿が、細そりしていた。白粉《おしろい》の斑《まだら》にこびりついたような額のあたりが、屋根から照返して来る日光に汚《きたな》らしく見えた。
「どういたしまして」
 お島は無造作に懸つらねた干物の間を潜《くぐ》りぬけながら、袂《たもと》で汗ばんだ顔を拭《ふ》いていた。
「私は働かないではいられない性分ですからね。だから、どんなに働いたって何ともありませんよ」
「そう」
 女はまだうっとりした夢にでも浸っているような、どこか暗い目色《めつき》をしながら呟いた。
「私の寝るのは、大抵十二時か一時ですよ」
「そうですかね」お島は白々しいような返辞をして、「でも可《い》いじゃありませんか。お秀さんは好い身分だって、衆《みんな》がそう言っていますよ」
 女は紅くなって、厭な顔をした。
「そうそう、お秀さんといっちゃ悪かったっけね。御免なさいよ」

     八十三

「どうです、今日は素敵に好《い》いお顧客《とくい》を世話してもらいましたよ」
 半日でも一日でも、外へ出て来ないと気のすまないようなお島は、職人たち
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