を利いているうちに、それがつい二三日前に、ふっと引込まれて行くような射倖心《しゃこうしん》が動いて、つい買って見る気になった或|賭《かけ》ものの中《あた》った報知《しらせ》であることが解った。
「お上さんは気象が面白いから、きっと中《あた》りますぜ」
 暮をどうして越そうかと、気をいらいらさせているお島に、そんな事に明い職人が説勧《ときすす》めてくれた。秘密にそれの周旋をしている家の、近所にあることまで、彼は知っていた。
「厭《いや》だよ、私そんなものなんか買うのは……」お島はそう言って最初それを拒んだが、やっぱり誘惑されずにはいなかった。
「そんな事をいわずに、物は試しだから一口買ってごらんなさい、しかし度々《たびたび》は可《い》けません、中《あた》ったら一遍こきりでおよしなさい」職人は勧めた。
「何といって買うのさ」
「何だって介意《かま》いません。あんたが何処かで見たものとか聞いた事とか……見た夢でもあれば尚面白い」
 それでお島は、昨夜《ゆうべ》見た竜の夢で、それを買って見ることにしたのであった。
 意《おも》いもかけない二百円ばかりの纏《まと》まった金を、それでその爺さんが持込んで来てくれたのであった。
 秘密な喜悦《よろこび》が、恐怖に襲われているお島たちの暗い心のうえに拡がって来た。
「何だか気味がわるいようだね」
 爺さんの行ったあとで、お島はその金を神棚《かみだな》へあげて拝みながら、小野田に私語《ささや》いた。

     七十五

 燈明の赤々と照している下で、お島たちはまるで今までの争いを忘れてしまったように、興奮した目を輝かして坐っていた。何か不思議な運命が、自分の身のうえにあるように、お島は考えていた。暗い頭脳《あたま》の底から、光が差してくるような気がした。
「ふむ、こう云うこともあるんだね」お島は感激したような声を出した。
「全く木村さんのいうことは当ったよ。して見ると、私は何でもヤマを張って成功する人間かも知れないね」
「お上さんの気前じゃ、地道《じみち》なことはとても駄目かも知れませんよ」
「面倒《めんど》くさい洋服屋なんか罷《や》めて、株でも買った方がいいかも知れないね」
「そうですね。洋服屋なんてものは、とても見込はありませんね。私《あっし》は二日歩いてみて、つくづくこの商売が厭になってしまった」
 職人は首を項垂《うなだ》れて溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
「そんな事を言ったって、今更この商売が罷《や》められるものか」小野田は何を言っているかと云う顔をして、呟いた。
 職人はやっぱり深く自分のことに思入っているように、それには耳も仮さなかった。
「私《あっし》は早晩洋服屋って商売は駄目になると思うね。羅紗《らしゃ》屋と裁縫師、その間に洋服屋なんて云う商人とも職工ともつかぬ、不思議な商売の成立《なりたち》を許さない時期が、今にきっと来ると思いますね」
 職人は興奮したような調子で言った。
「どうしてさ」お島は目元に笑って、「この人はまた妙なことを言出したよ」
「だってそうでしょう」職人は誰にもそれが解らないのが不思議のように熱心に、「だからお客は莫迦《ばか》に高いものを着せられて、職人はお店《たな》のために働くということになる。その癖洋服屋は資本が寝ますから、小い店はとても成立って行きやしませんや。これはどうしたって、お客が直接地を買って、裁縫師に仕立を頼むってことにしなくちゃ嘘《うそ》です」
「ふむ」とお島は首を傾《かし》げて聴惚《ききほ》れていた。今まで莫迦にしていたこの男が、何か耳新しい特殊な智識を持っている悧巧《りこう》者のように思えて来た。
「君は職人だから、自分の都合のいいように考えるんだけれど、実地にはそうは行かないよ」小野田は冷笑《あざわら》った。
「だがこの人は莫迦じゃないね。何だか今に出世をしそうだよ」
 お島はそう言って、神棚から取おろした札束の中から、十円札を一枚持出すと、威勢よく表へ飛出して行った。
「おい、ちょっと己にもう一度見せろよ」小野田はそう言って、札を両手に引張りながら、物欲しそうな目を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、141−10]《みは》った。
「好い気になって余りぱっぱと使うなよ」
 お島が方々札びらを切って、註文して来た酒や天麩羅《てんぷら》で、男達はやがて飲《のみ》はじめた。

     七十六

 そんな噂《うわさ》がいつか町内へ拡がったところから、縁起を祝うために、鈴木組と云う近所の請負師の親分の家で出た註文を、不意に受けたのが縁で、その男の引立で、家が遽《にわか》に景気づいて来た。
 月島で幅を利《きか》していたその請負師の家へ、お島は新調の著物《きもの》などを着込んで、註文を聞きに行った。寒い雨の降る日で、茶《ちゃ》の室《ま》の火鉢の側には下に使われている男が仕事を休んで、四五人集っていた。大きな縁起棚の傍には、つい三四日前の酉《とり》の市《いち》で買って来た熊手などが景気よく飾られて、諸方からの附届けのお歳暮が、山のように積まれてあった。男達のなかには、お島が見知《みしり》の顔も見受けられた。
「お上さんは莫迦に鉄火な女だっていうから、外套《がいとう》を一つ拵《こさ》えてもらおうと思うんだが……」
 金歯や指環などをぴかぴかさせて、糸織の褞袍《どてら》に着脹《きぶく》れている、五十年輩のその親方は、そう言いながら、サンプルを見はじめた。痩《やせ》ぎすな三十七八の小意気な女が、軟かものを引張って、傍に坐っていた。
「工合がよければ、またちょいちょい好いお客をおれが周旋するよ」
 親分は無造作に註文を決めて了うと、そう言って莨をふかしていた。今まで受けたこともないような河獺《かわおそ》の衿《えり》つき外套や、臘虎《らっこ》のチョッキなどに、お島は当素法《あてずっぽう》な見積を立てて目の飛出るほどの法外な高値を、何の苦もなく吹きかけたのであった。
「これを一つあなたのような方に召していただいて、是非皆さんに御吹聴して頂きたいのでございます。どういたしましても、親方のようなお顔の売れた方の御|贔屓《ひいき》にあずかりませんと、私共《わたくしども》の商売は成立って行きませんのでございます」
 男達はみんなお島の弁《しゃべ》る顔を見て、面白そうに笑っていた。
「お上さんの家では、お上さんが大層な働きもので、お亭主はぶらぶら遊んでいるというじゃないか」男たちはお島に話しかけた。
「衆《みな》さんがそう言って下さいます」お島は赤い顔をして、サンプルを仕舞っていた。
「たまに宅へお見えになるお客がございましても、私《わたくし》がいないと御註文がないと云う始末でございますから。あれじゃお前が一人で切廻す訳だと、お客さまが仰《おっし》ゃって下さいます」
 お島はそう言って、この商売をはじめた自分の行立《ゆきたて》を話して、衆《みんな》を面白がらせながら、二時間も話しこんでいた。
「あの辺でおきき下さいませば、もう誰方《どなた》でも御存じでございます。滝庄《たきしょう》という親分が、以前私の父の兄で、顔を売っていたものですから、ああ云う社会の方《かた》が、あの辺ではちょいちょい私のお得意さまでございます」
 帰りがけにお島は、自分のそうした身のうえまで話した。

     七十七

 そんなような仕事が、少しばかり続くあいだ、例の金で身装《みなり》のできたお島は、暮のせわしいなかを、昼間は顧客《とくい》まわりをして、夜になると能《よ》く小野田と一緒に浮々した気分で、年の市などに景気づいた町を出歩いたり、友達のようになった顧客先の細君連と、芝居へ入ったり浅草辺をぶらついたりして調子づいていたが、それもまたぱったり火の消えたように閑《ひま》になって、肆《ほしいま》まに浪費した金の行方《ゆくえ》も目にみえずに、物足りないような寂しい日が毎日々々続いた。
 定《きま》りだけの仕事をすると、職人は夫婦の外を出歩いているあいだ、この頃ふとした事から思いついた翫具《おもちゃ》の工夫に頭脳《あたま》を浸して、飯を食うのも忘れているような事が多かった。
 仕事の断え間になると、彼は昼間でも一心になってそれに耽っていた。時とすると夜《よる》夫婦が寝しずまってからも、彼はこつこつ何かやっていた。
「この人は何をしているの」
 隅《すみ》の方へ入って、ボール紙を切刻んだり、穴を明けたり、絵具をさしたりして、夢中になっている彼の傍へ来て、お島は可笑《おかし》そうに訊《たず》ねた。
「こう云う悪戯《いたずら》をしているんです」
 彼は細《こまか》く切ったその紙片を、賽《さい》の目《め》なりに筋をひいて紙のうえに駢《なら》べていながら、振顧《ふりむ》きもしないで応えた。
「何だねその切符のようなものは……」
「これですか」木村はやっぱりその方に気を褫《と》られていた。
「これは軍艦ですよ」
「軍艦をどうするの」
「これでもって海軍将棋を拵《こさ》えようというんです」
「海軍将棋だって? へえ。そしてそれを何《なん》にするの」
「高尚な翫具を拵《こさ》えて、一儲けしようってんですがね……この小《ちいさ》いのが水雷艇《すいらいてい》です」
「へえ、妙なことを考えたんだね。戦争あて込みなんだね」
「まあそうですね。これが当ると、お上さんにもうんと資本《もと》を貸しますよ。どうせ私《あっし》は金の要《い》らない男ですからね」
「はは」と、お島は笑いだした。
「可《よ》かったね」
「こればかりじゃないんです」職人はこの頃夜もろくろく眠らずに凝り考えた、色々の考案が頭脳《あたま》のなかに渦のように描かれていた。新しい仕事の興味が、彼の小さい心臓をわくわくさせていた。
「私《あっし》ゃ子供の時分から、こんな事が好きだったんですから、この外にまだ幾箇《いくつ》も考えてるんですが、その中には一つ二つ成功するのが急度《きっと》ありますよ」
「じゃ木村さんは発明家になろうというんだわね。発明家ってどんな豪《えら》い人かと思っていたら、木村さんのような人でもやれるような事なら、有難《ありがた》くもないね」
「笑談言っちゃ可《い》けませんよ」
「まあ発明もいいけれど、仕事の方もやって下さいね、どしどし仕事を出しますからね」

     七十八

 お島たちが、寄《より》つく処もなくなって、一人は職人として、一人は註文取として、夫婦で築地の方の或洋服店へ住込むことになったのは、二人が半歳ばかり滞っていた小野田の故郷に近いN――と云う可也《かなり》繁華な都会から帰ってからであった。
 一月から三月頃へかけて、店が全く支え切れなくなったところで、最初同じ商売に取《とり》ついている知人を頼って、上海《シャンハイ》へ渡って行くつもりで、二人は小野田の故郷の方へ出向いて行ったのであったが、路用や何かの都合で、そこに暫く足を停《と》めているうちに、ついつい引かかって了ったのであった。
 二人が月島の店を引払った頃には、三月《みつき》ほどかかって案じ出した木村の新案ものも、古くから出ているものに類似品があったり、特許出願の入費がなかったりしたために、孰《どれ》もこれも持腐れになってしまったのに落胆《がっかり》して、又渡り職人の仲間へ陥《お》ちて行っていた。
 南の方の海に程近いN――市では二人は少しばかり持っている著替《きがえ》などの入った貧しい行李《こうり》を、小野田の妹の家で釈《と》くことになったが、町には小野田の以前の知合も少くなかった。
 主人が勤人であった妹の家の二階に二三日寝泊りしていた二人は、そこから二里ばかり隔たった村落にいる小野田の父親に遭《あ》って、そこから出発するはずであったが、以前住んでいた家や田畑も人の手に渡って、貧しい百姓家の暮しをしている父親の様子を、一度行って見て来た小野田は、見すぼらしげな父親をお島に逢わせるのが心に憚《はばか》られた。東京に住つけた彼の目には、久しく見なかった惨《みじ》めな父親の生活が、自分にすら厭《いと》わしく思えた。
 逢いさえすれば、
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