に近い或小駅で、お島は乗込んで来る三四人の新しい乗客が、自分の向側へ来て坐るのを見た。
 それらの人は、どこかこの近辺の温泉場へでも遊びに行って来たものらしく、汽車が動きだしてからも、手々《てんで》にそんな話に耽《ふけ》っていた。山の町の人達の噂《うわさ》も、彼等の口に上《のぼ》ったが、浜屋々々と云う辞《ことば》が、一層お島の耳についた。汽車の窓から、首をのばして彼等の見ている山の形が、ふと浜屋の記憶を彼等に喚起《よびおこ》したのであった。その山は、そこから二三里の先の灰色の水霧のなかに幽《かす》かな姿を見せていた。
「あなた方《がた》はS――町の方のようですが、浜屋さんがどうかしましたのですか」
 お島は、断々《きれぎれ》に耳につくその話に、ふと不安を感じながら訊いた。
「私《わたくし》は東京から、あの人に少し用事があって来たものですが、お話の様子では、あの人があの山のなかで何か災難にでも逢ったと云うのでしょうか」
 遊女屋の主人か、芸者町の顔利《かおきき》かと云うような、それらの人たちは、みんなお島の方へその目を注いだ。
 金歯などをぎらぎらさせたその中の一人の話によると、浜屋は近頃自分の手に買取ったその山のある一部の森林を見廻っているとき、雨《あま》あがりの桟道《そばみち》にかけてある橋の板を踏すべらして、崖《がけ》へ転《ころが》り陥《お》ちて怪我《けが》をしてから、病院へ担《かつ》ぎこまれて、間もなく死んでしまったと云うのであった。
 お島はそれを聴いたとき、あの男が、そんな不幸な死方をしたとは、信じられなかったが、その死の日や刻限までを聴知ってから、次第にその確実さが感じられて来た。
「すれば、あの人の霊《たましい》が、私をここへ引寄せたのかもしれない」
 お島はそうも考えながら、次第に深い失望と哀愁のなかへ心が浸されて行くのを感じた。
 浜屋へついたのは、日の暮方であった。以前よく往来《ゆきき》をしたステーションの広場には、新しい家などが建っているのが二三目についたが、俥《くるま》のうえから見る大通りは、どこもかしこも変りはなかった。雨がはれあがって、しめっぽい六月の空の下に、高原地の古い町が、澱《おど》んだような静さと寂しさとで、彼女の曇《うる》んだ目に映った。
 お島はその夜《よ》一夜《ひとよ》は、むかし自分の拭掃除《ふきそうじ》などをした浜屋の二階の一室に泊って、翌《あく》る日《ひ》は、町のはずれにある菩提所《ぼだいしょ》へ墓まいりに行った。その寺は、松や杉などの深い木立のなかにある坂路のうえにあった。
 松風の音の寂しい山門を出てからも、お島はまだ墓の下にあるものの執着の喘《あえ》ぎが、耳につくような無気味さを感じた。彼女は急いで道をあるいた。
 半日を浜屋で暮して、十二時頃お島はまた汽車に乗った。
「どこか温泉で二三日遊んでいこう」
 失望の安易に弛《ゆる》んだ彼女は、汽車のなかでそうも考えた。

     百十三

 途中汽車を乗替えたり、電車に乗ったりして、お島はその日の昼少し過ぎに、遠い山のなかの或温泉場に着いた。
 浴客はまだ何処にも輻湊《ふくそう》していなかったし、途々《みちみち》見える貸別荘の門なども大方は閉《しま》っていて、松が六月の陽炎《ようえん》に蒼々《あおあお》と繁り、道ぞいの流れの向うに裾をひいている山には濃い青嵐《せいらん》が煙《けぶ》ってみえた。
 お島の導かれたのは、ある古い家建《やだち》の見晴《みはらし》のいい二階の一室であったが、女中に浴衣《ゆかた》に着替えさせられたり、建物のどん底にあるような浴場へ案内されたりする度《たんび》に、一人客の寂しさが感ぜられた。
 浴場の窓からは、草の根から水のちびちびしみ出している赭土山《あかつちやま》が侘《わび》しげに見られ、檐端《のきば》はずれに枝を差交《さしかわ》している、山国らしい丈《たけ》のひょろ長い木の梢《こずえ》には、小禽《ことり》の声などが聞かれた。
「お一人でお寂しゅうございますでしょう」
 浴後の軽い疲をおぼえて、うっとりしているところへ、女がそう言いながら膳部《ぜんぶ》を運んで来た。
 笑い声などを立てたことのない、この二日ばかりの旅が、物悲しげに思いかえされた。どこの部屋からか蓄音器が高調子に聞えていた。
 電話室へ入って、東京の自宅《うち》の様子を聞くことのできたのは、それから大分たってからであった。小野田はまだ帰っていなかった。
「好いところだよ。旦那の留守に、お前さんも一日遊びに来たらいいだろう」
 お島は四五日の逗留《とうりゅう》に、金を少し取寄せる必要を感じていたので、その事を、留守を頼んでおいた若い職人に頼んでから、そう言って誘《いざな》った。
「それから順吉もつれて来て頂戴よ。あの子には散々《さんざ》苦労をさせて来たから、一日ゆっくり遊ばしてやりましょうよ」
 お島はそうも言って頼んだ。
 その晩は、水の音などが耳について、能《よ》くも睡《ねむ》られなかった。
 夜があけると、東京から人の来るのが待たれた。そして怠屈な半日をいらいらして暮しているうちに、旋《やが》て昼を大分過ぎてから二人は女中に案内されて、お島の着替えや水菓子の入った籠《かご》などをさげて、どやどやと入って来た。部屋が急に賑《にぎや》かになった。
「こんな時に、私も保養をしてやりましょうと思って。でも、一人じゃつまらないからね」お島は燥《はしゃ》いだような気持で、いつになく身綺麗にして来た若い職人や、お島の放縦《ほうじゅう》な調子におずおずしている順吉に話しかけた。
「医者に勧められて湯治に来たといえば、それで済むんだよ。事によったら、上さんあの店を出て、この人に裁《たち》をやってもらって、独立《ひとりだち》でやるかも知れないよ」
 お島は順吉にそうも言って、この頃考えている自分の企画《もくろみ》をほのめかした。



底本:「あらくれ」新潮文庫、新潮社
   1949(昭和24)年10月31日発行
   1969(昭和44)年6月20日21刷改版
   1982(昭和57)年9月15日38刷
※本作品中には、今日では差別的表現として受け取れる用語が使用されています。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、あえて発表時のままとしました。(青空文庫)
入力:久保あきら
校正:湯地光弘
2000年6月23日公開
2000年7月8日修正
青空文庫作成ファイル:
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