宕下《あたごした》の方にいることを、思いだして、それに店の手入を頼んでから、郵便局に使われていた古いその家の店が、急に土間に床が拵《こしら》えられたり、天井に紙が張られたり、棚が作られたりした。一畳三十銭ばかりの安畳が、どこかの古道具屋から持運ばれたりした。
 雨降がつづいて、木片《きぎれ》や鋸屑《おがくず》の散らかった土間のじめじめしているようなその店へ、二人は移りこんで行った。
 陳列棚などに思わぬ金がかかって、店が全く洋服屋の体裁を具《そな》えるようになるまでに、昼間お島の帯のあいだに仕舞われてある財布が、二度も三度も空《から》になった。大工が道具箱を隅《すみ》の方に寄せて、帰って行ってから、お島はまたあわただしく箪笥の抽斗《ひきだし》から取出した着物の包をかかえて、裏から私《そっ》と出て行った。
 外はもう年暮《としぐれ》の景色であった。赤い旗や紅提灯《べにぢょうちん》に景気をつけはじめた忙しい町のなかを、お島は込合う電車に乗って、伯母の近所の質屋の方へと心が急《せ》かれた。

     六十七

 ミシンや裁台《たちだい》などの据えつけに、それでも尚《なお》足りない分を、お島の顔で漸《やっ》と工面ができたところで、二人の渡《わた》り職人《しょくにん》と小僧とを傭い入れると、直に小野田が被服廠《ひふくしょう》の下請からもらって来た仕事に働きはじめた。
「大晦日《おおみそか》にはどんな事があってもお返しするんですがね。仕事は山ほどあって、面白いほど儲《もう》かるんですから」
 お島はそう言ってそのミシンや裁板《たちいた》を買入れるために、小野田の差金で伯母の関係から知合いになった或る衣裳持《いしょうもち》の女から、品物で借りて漸《やっ》と調《ととの》えることのできた際《きわ》どい金を、彼女は途中で目についた柱時計や、掛額《かけがく》などがほしくなると、ふと手を着けたりした。
「みんな店のためです。商売の資本《もと》になるんです」
 お島は小野田に文句を言われると、悧巧《りこう》ぶって応《こた》えた。
 まだ自分の店に坐った経験のない小野田の目にも、そうして出来あがった店のさまが物珍しく眺められた。
「うんと働いておくれ。今にお金ができると、お前さんたちだって、私が放抛《うっちゃ》っておきやしないよ」
 お島はそう言って、のろのろしている職人に声をかけたが、夜おそくまで廻っているミシンの響や、アイロンの音が、自分の腕一つで動いていると思うと、お島は限りない歓喜と矜《ほこり》とを感じずにはいられなかった。
 劇《はげ》しい仕事のなかに、朝から薄ら眠いような顔をしている乱次《だらし》のない小野田の姿が、時々お島の目についた。
「ちッ、厭になっちまうね」
 お島は針の手を休めて、裁板の前にうとうとと居睡《いねむり》をはじめている、彼の顔を眺めて呟《つぶや》いた。
「どうしてでしょう。こんな病気があるんだろうか」
 職人がくすくす笑出した。
「そんなこって善く年季が勤まったと思うね」
「莫迦《ばか》いえ」小野田は性《しょう》がついて来ると、また手を働かしはじめた。
 色々なものの支払いのたまっている、大晦日が直《じき》に来た。品物でかりた知合の借金に店賃《たなちん》、ミシンの月賦や質の利子もあった。払いのこしてあった大工の賃銀のことも考えなければならなかった。
「こんなことじゃとても追着《おっつ》きこはありゃしない」お島は暮に受取るべき賃銀を、胸算用で見積ってみたとき、そう言って火鉢の前に腕をくんで考えこんだ。
「もっともっと稼がなくちゃ」お島はそう言って気をあせった。

     六十八

 大晦日《おおみそか》が来るまでに、二時になっても三時になっても、皆が疲れた手を休めないような日が、三日も四日も続いた。
 夜が更《ふ》けるにつれて、表通りの売出しの楽隊の囃《はや》しが、途絶えてはまた気懈《けだる》そうに聞えて来た。門飾の笹竹《ささだけ》が、がさがさと憊《くたび》れた神経に刺さるような音を立て、風の向《むき》で時々耳に立つ遠くの町の群衆の跫音《あしおと》が、潮《うしお》でも寄せて来るように思い做《な》された。
 職人達の口に、嗄《か》れ疲れた話声が途絶えると、寝不足のついて廻っているようなお島の重い頭脳《あたま》が、時々ふらふらして来たりした。がたんと言うアイロンの粗雑《がさつ》な響が、絶えず裁板のうえに落ちた。ミシンがまた歯の浮くような騒々しさで運転しはじめた。
「この人到頭寝てしまったよ」
 寒さ凌《しの》ぎに今までちびちび飲んでいた小野田が、いつの間にかそこに体を縮めて、ごろ[#「ごろ」に傍点]寝をしはじめていた。
「今日は幾日《いくか》だと思っているのだい」
「上《かみ》さんは感心に目の堅い方《ほう》ですね」職人がそれに続いてまた口を利いた。
「私は二日や三日寝ないだって平気なもんさ」
 お島は元気らしく応《こた》えた。
 晦日の夜おそく、仕上げただけの物を、小僧にも脊負《しょ》わせ、自分にも脊負って、勘定を受取って来たところで、漸《やっ》と大家や外の小口を三四軒片着けたり、職人の手間賃を内金に半分ほども渡したりすると、残りは何程もなかった。
「宅《うち》じゃこういう騒ぎなんです」
 品物を借りてある女が、様子を見に来たとき、お島は振顧《ふりむ》きもしないで言った。
 店には仕事が散《ちら》かり放題に散かっていた。熨斗餅《のしもち》が隅《すみ》の方におかれたり、牛蒡締《ごぼうじめ》や輪飾が束《つか》ねられてあったりした。
「貴女《あなた》の方は大口だから、今夜は勘弁してもらいましょうよ」
 お島はわざと嵩《かさ》にかかるような調子で言った。
 小野田に嫁の世話を頼まれて、伯母がこれをと心がけていたその女は、言にくそうにして、職人の働きぶりに目を注いでいた。女は居辛《いづら》かった田舎の嫁入先を逃げて来て、東京で間借をして暮していた。着替や頭髪《あたま》の物などと一緒に持っていた幾許《いくら》かの金も、二三|月《かげつ》の東京見物や、月々の生活費に使ってしまってから、手が利くところから仕立物などをして、小遣を稼《かせ》いでいた。二三度逢ううち直にお島はこの女を古い友達のようにして了った。
「まあ宅《うち》へ来て年越でもなさいよ」お島は女に言った。
 女は惘《あき》れたような顔をして、火鉢の傍で小野田と差向いに坐っていたが、間もなく黙って帰って行った。
「いくらお辞儀が嫌いだって、あんなこと言っちゃ可《い》けねえ」後で小野田がはらはらしたように言出した。
「ああでも言って逐攘《おっぱら》わなくちゃ、遣切《やりき》れやしないじゃないか」お島は顫《ふる》えるような声で言った。
「不人情で言うんじゃないんだよ。今に恩返しをする時もあるだろうと思うからさ」

     六十九

 同じような仕事の続いて出ていた三月《みつき》ばかりは、それでもまだどうか恁《こう》かやって行けたが、月が四月へ入って、ミシンの音が途絶えがちになってしまってからは、お島が取かかった自分の仕事の興味が、段々裏切られて来た。職人の手間を差引くと、幾許《いくら》も残らないような苦しい三十日《みそか》が、二月《ふたつき》も三月も続いた。家賃が滞ったり、順繰に時々で借りた小《ちいさ》い借金が殖《ふ》えて行ったりした。
「これじゃ全然《まるで》私達が職人のために働いてやっているようなものです」お島は遣切《やりきり》のつかなくなって来た生活の圧迫を感じて来ると、そう言って小野田を責めた。冬中|忙《せわ》しかった裁板の上が、綺麗に掃除をされて、職人の手を減した店のなかが、どうかすると吹払ったように寂しかった。
 近頃電話を借りに行くこともなくなった大家の店には、酒の空瓶《あきびん》にもう八重桜が生《い》かっているような時候であった。そこの帳場に坐っている主人から、お島たちは、二度も三度も立退《たちのき》の請求を受けた。
「洋服屋って、皆《みん》なこんなものなの。私は大変な見込ちがいをして了った」
 終《しまい》に工賃の滞っているために、身動きもできなくなって来た職人と、店頭《みせさき》へ将棋盤などを持出していた小野田の、それにも気乗がしなくなって来ると、ぽかんとして女の話などをしている暢気《のんき》そうな顔が、間がぬけたように見えたりして、一人で考え込んでいたお島はその傍へ行って、やきもきする自分を強《し》いて抑えるようにして笑いかけた。
「何《なあ》に、そうでもないよ」
 小野田は顔を顰《しか》めながら、仕事道具の饅頭《まんじゅう》を枕に寝そべって、気の長そうな応答《うけごたえ》をしていた。
 お島はのろくさいその居眠姿が癪《しゃく》にさわって来ると、そこにあった大きな型定規のような木片《きぎれ》を取って、縮毛《ちぢれげ》のいじいじした小野田の頭顱《あたま》へ投《なげ》つけないではいられなかった。
「こののろま野郎!」
 お島は血走ったような目一杯に、涙をためて、肉厚な自分の頬桁《ほおげた》を、厚い平手で打返さないではおかない小野田に喰《く》ってかかった。猛烈な立ちまわりが、二人のあいだに始まった。
 殺しても飽足りないような、暴悪な憎悪の念が、家を飛出して行く彼女の頭に湧返《わきかえ》っていた。
 暫くすると、例の女が間借をしている二階へ、お島は真蒼《まっさお》になって上って行った。
「あの男と一緒になったのが、私の間違いです。私の見損《みそこな》いです」お島は泣きながら話した。
「どうかして一人前《いちにんまえ》の人間にしてやろうと思って、方々|駈《かけ》ずりまわって、金をこしらえて店を持ったり何かしたのが、私の見込ちがいだったのです」
 お島は口惜《くや》しそうにぼろぼろ涙を流しながら言った。
「どうしても私は別れます。あの男と一緒にいたのでは、私の女が立ちません」
 荒い歔欷《すすりなき》が、いつまで経っても遏《や》まなかった。

     七十

「どうなすったね」
 脇目もふらずに、一日仕事にばかり坐っている沈みがちなその女は、惘《あき》れたような顔をして、お島が少し落着きかけて来たとき、言出した。
「貴女《あんた》はよく稼ぐというじゃないかね。どうしてそう困るね」
「私がいくら稼いだって駄目です。私はこれまで惰《なま》けるなどと云われたことのない女です」お島は涙を拭《ふ》きながら言った。
「洋服屋というものは、大変|儲《もう》かる商売だということだけれど……二人で稼いだら楽にやって行けそうなものじゃないかね」女はやっぱり仕事から全く心を離さずに笑っていた。
「それが駄目なんです。あの男に悪い病気があるんです。私は行《や》ろうと思ったら、どんな事があっても遣通《やりとお》そうって云う気象ですから、のろのろしている名古屋ものなぞと、気のあう筈《はず》がないんです」
「そんな人とどうして一緒になったね」女はねちねちした調子で言った。
 お島は「ふむ」と笑って、泣顔を背向《そむ》けたが、この女には、自分の気分がわかりそうにも思えなかった。
「でも東京というところは、気楽な処じゃないかね。私等《わしら》姑《しゅうと》さんと気が合わなんだで、恁《こう》して別れて東京へ出て来たけれど、随分辛い辛抱もして来ましたよ。今じゃ独身《ひとり》の方が気楽で大変好いわね。御亭主なんぞ一生持つまいと思っているわね」
「何を言っているんだ」と云うような顔をして、お島は碌々《ろくろく》それには耳も仮さなかった。そしてやっぱり自分一人のことに思い耽《ふけ》っていた。時々胸からせぐりあげて来る涙を、強いて圧《おし》つけようとしたが、どん底から衝動《こみあ》げて来るような悲痛な念《おもい》が、留《とめ》どもなく波だって来て為方がなかった。どこへ廻っても、誤り虐《しいた》げられて来たような自分が、可憐《いじらし》くて情《なさけ》なかった。
 小野田がのそりと入って来たときも、静に針を動かしている女の傍に、お島は坐っていた。どんよりした目には、こびり着いたような涙がまだたまっ
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