りと、人の賃仕事などで、漸《ようよ》う生きている身の上であった。
昔しを憶いだすごとに、時々口にすることのある酒が、萎《な》えつかれた脈管にまわってくると、爪弾《つめびき》で端唄《はうた》を口吟《くちずさ》みなどする三味線が、火鉢《ひばち》の側の壁にまだ懸っていた。良人であったその剣客の肖像も、煤《すす》けたまま梁《うつばり》のうえに掲《かか》っていた。
お島は養家を出てから、一二度ここへも顔出しをしたことがあったが、年を取っても身だしなみを忘れぬ伯母の容態などが、荒く育ってきた彼女には厭味に思われた。色の白そうな、口髭《くちひげ》や眉《まゆ》や額の生際《はえぎわ》のくっきりと美しいその良人の礼服姿で撮《と》った肖像が、その家には不似合らしくも思えた。
「伯母さんの旦那は、こんなお上品な人だったんですかね」
お島は不思議そうにその前へ立って笑った。その良人が、若いおりには、或大名のお抱えであったりした因縁《いんねん》から、桜田の不意の出来事当時の模様を、この伯母さんは、お島に話して聞かせたりした。子供をつれて浅草へ遊びに行ったとき、子供が荷物に突当ったところから、天秤棒《てんびんぼう》を振あげて向って来る甘酒屋を、群衆の前に取って投げて、へたばらしたという話なども、お島には芝居の舞台か何ぞのように、その時のさまを想像させるに過ぎなかった。
「この伯母さんも、旦那のことが忘れられないでいるんだ」
伯母と一緒に暮すことになってから、お島は段々彼女の心持に、同感できるような気がして来た。
「やっぱり男で苦労した若い時代が忘れられないでいるんだ」
お島はそうも思った。
そんなに好いものも縫えなかった伯母の身のまわりには、それでも仕事が絶えなかった。中には芸者屋のものらしい派手なものもあった。
その手助《てだすけ》に坐っているお島は、仕事がいけぞんざいだと云って、どうかすると物差で伯母に手を打《ぶ》たれたりした。
重《おも》に気のはらない、急ぎの仕事にお島は重宝がられた。
六十三
客から註文のセルやネルの単衣物《ひとえもの》の仕立などを、ちょいちょい頼みに来て、伯母と親しくしていたところから、時にはお島の坐っている裁物板《たちものいた》の側へも来て、寝そべって戯談《じょうだん》を言合ったりしていた小野田と云う若い裁縫師と一緒に、お島が始めて自分自身の心と力を打籠《うちこ》めて働けるような仕事に取着こうと思い立ったのは、その頃初まった外国との戦争が、忙《いそが》しいそれ等の人々の手に、色々の仕事を供給している最中《さなか》であった。
自分の仕事に思うさま働いてみたい――奴隷のようなこれまでの境界《きょうがい》に、盲動と屈従とを強《し》いられて来た彼女の心に、そうした欲望の目覚めて来たのは、一度山から出て来て、お島をたずねてくれた浜屋の主人と別れた頃からであった。
東京へ帰ってからのお島から、時々葉書などを受取っていた浜屋の主人は、菊の花の咲く時分に、ふいと出て来てお島のところを尋ねあてて来たのであったが、二日三日|逗留《とうりゅう》している間に、お島は浅草や芝居や寄席《よせ》へ一緒に遊びに行ったり、上野近くに取っていたその宿へ寄って見たりした。
浜屋は近頃、以前のように帳場に坐ってばかりもいられなかった。そして鉱山《やま》の売買《うりかい》などに手を出していたところから、近まわりを其方《そっち》こっち旅をしたりして暮していたが、東京へ来たのもそんな仕事の用事であった。
「気を長くして待っていておくれ。そのうち一つ当れば、お島さんだってそのままにしておきゃしない」
彼は今でもお島をT――市《まち》の方へつれていって、そこで何等かの水商売をさせて、囲っておく気でいるらしかった。
「今更あの山のなかへなぞ行って暮せるもんですか。お妾さんなんか厭なこった」お島はそう言って笑って別れたのであった。
男は少しばかりの小遣《こづかい》をくれて、停車場《ステーション》まで送ってくれた女に、冬にはまた出て来る機会のあることを約束して、立っていった。
東京で思いがけなく男に逢えたお島は、二三日の放肆《ほしいまま》な遊びに疲れた頭脳《あたま》に、浜屋のことと、若い裁縫師のこととを、一緒に考えながら、ぼんやり停車場を出て来た。
六十四
「どうです、こんな仕事を少し助《す》けてくれられないでしょうか」と、小野田がそう言って、持って来てくれた仕事は、これから寒さに向って来る戦地の軍隊に着せるような物ばかりであった。
それまで仕売物ばかり拵《こしら》えている或工場に働いていた小野田は、そんな仕事が仲間の手に溢《あふ》れるようになってから、それを請負《うけお》うことになった工場の註文を自分にも仕上げ、方々人にも頼んであるいた。
「仕事はいっくらでも出ます。引受けきれないほどあります」
小野田はお島がやってみることになった、毛布の方の仕事を背負《しょ》いこんで来ると、そう言ってその遣方を彼女に教えて行った。
毛布というのは兵士が頭から着る柿色の防寒|外套《がいとう》であった。女の手に出来るようなその纏《まと》めに最初働いていたお島は、縫あがった毛布にホックや釦《ボタン》をつけたり、穴かがりをしたりすることに敏捷《びんしょう》な指頭《ゆびさき》を慣した。「これのまとめ[#「まとめ」に傍点]が一つで十三銭ずつです」小野田がそう云って配《あてが》っていった仕事を、お島は普通の女の四倍も五倍もの十四五枚を一日で仕上げた。
手ばしこく針を動かしているお島の傍へ来て、忙《せわ》しいなかを出来上りの納《おさめ》ものを取りに来た小野田はこくりこくりと居睡をしていた。
平気で日に二円ばかりの働きをするお島の帯のあいだの財布のなかには、いつも自分の指頭《ゆびさき》から産出した金がざくざくしていた。
「こんな女《ひと》を情婦《いろ》にもっていれば、小遣に不自由するようなことはありませんな」
小野田は眠からさめると、せっせと穴かがりをやっている手の働きを眺めながら、そう言ってお島の働きぶりに舌を捲《ま》いていた。
「どうです、私を情婦《いろ》にもってみちゃ」お島は笑いながら言った。
「結構ですな」
小野田はそう言いながら、品物を受取って、自転車で帰っていった。
ホックづけや穴かがりが、お島には慣れてくると段々|間弛《まだる》っこくて為方がなくなって来た。
年の暮には、お島はそれらの仕事を請負っている小野田の傭《やと》われ先の工場で、ミシン台に坐ることを覚えていた。むずかしい将校服などにも、綺麗にミシンをかけることが出来てきた。
「訳あないや、こんなもの、男は意気地がないね」
お島はのろのろしている、仲間を笑った。
車につんで、溜池《ためいけ》の方にある被服廠《ひふくしょう》の下請《したうけ》をしている役所へ搬《はこ》びこまれて行く、それらの納めものが、気むずかしい役員|等《ら》のために非《けち》をつけられて、素直に納まらないようなことがざら[#「ざら」に傍点]にあった。
「こんなものが納まらなくちゃ為方がないじゃありませんか」
男達に代って、それらの納めものを持って行くことになったとき、お島はそう言って、ミシンが利いていないとか、服地が粗悪だとか、何《なん》だかんだといって、品物を突返そうとする役員をよく丸め込んだ。
お島のおしゃべりで、品物が何の苦もなく通過した。
六十五
お島が自分だけで、どうかしてこの商売に取着いて行きたいとの望みを抱きはじめたのは、彼女が一日工場でミシンや裁板《たちいた》の前などに坐って、一円二円の仕事に働くよりも、註文取や得意まわりに、頭脳《あたま》を働かす方に、より以上の興味を感じだしてからであった。
「被服も随分扱ったが、女の洋服屋ってのは、ついぞ見たことがないね」
ちょいちょい納品《おさめもの》を持って行くうちに、直《じき》に昵近《ちかづき》になった被服廠の役員たちが、そう云って、てきぱきした彼女の商《あきな》いぶりを讃《ほ》めてくれた辞《ことば》が、自分にそうした才能のある事をお島に考えさせた。
「洋服屋なら女の私にだってやれそうだね」
仕事の途絶えたおりおりに、家の方にいるお島のところへ遊びに来る小野田に、お島がその事を言出したのは、今までその働きぶりに目を注いでいる小野田に取っては、自分の手で、彼女を物にしてみようと云う彼の企てが、巧く壺《つぼ》にはまって来たようなものであった。
「遣ってやれんこともないね」感じが鈍いのか、腹が太いのか解らないような小野田は、にやにやしながら呟《つぶや》いた。名古屋の方で、二十歳頃《はたちごろ》まで年季を入れていたこの男は、もう三十に近い年輩であった。上向《うわむき》になった大きな鼻頭《はながしら》と、出張った頬骨《ほおぼね》とが、彼の顔に滑稽《こっけい》の相を与えていたが、脊《せ》が高いのと髪の毛が美しいのとで、洋服を着たときの彼ののっしりした厳《いかつ》い姿が、どうかするとお島に頼もしいような心を抱かしめた。
「私のこれまで出逢ったどの男よりも、お前さんは男振が悪いよ」お島はのっそりした無口の彼を前において、時々遠慮のない口を利いた。
「むむ」小野田はただ笑っているきりであった。
「だけどお前さんは洋服屋さんのようじゃない。よくそんな風をしたお役人があるじゃないか」
しなくなした前垂《まえだれ》がけの鶴さんや、蝋細工《ろうざいく》のように唯美しいだけの浜屋の若主人に物足りなかったお島の心が、小野田のそうした風采《ふうさい》に段々|惹着《ひきつ》けられて行った。
「工場から引っこぬいて、これを自分の手で男にしてみよう」
薄野呂《うすのろ》か何ぞのような眠たげな顔をして、いつ話のはずむと云うこともない小野田と親しくなるにつれて、不思議な意地と愛着《あいじゃく》とがお島に起って来た。
「洋服屋も好い商売だが、やっぱり資本《もと》がなくちゃ駄目だよ。金の寝る商売だからね」小野田はお島に話した。
「資本《もと》があってする商売なら、何だって出来るさ。だけれど、些《ちょっ》とした店で、どのくらいかかるのさ」
「店によりきりさ。表通りへでも出ようと云うには、生《なま》やさしい金じゃとても駄目だね」
六十六
芝の方で、適当な或|小《ちいさ》い家が見つかって、そこで小野田と二人で、お島がこれこそと見込んだ商売に取着きはじめたのは、十二月も余程押迫って来てからであった。
そうなるまでに、お島は幾度|生家《うち》の方へ資金の融通を頼みに行ったか知れなかった。小いところから仕上げて大きくなって行った、大店《おおだな》の成功談などに刺戟《しげき》されると、彼女はどうでも恁《こう》でもそれに取着かなくてはならないように心が焦《いら》だって来た。町を通るごとに、どれもこれも相当に行き立っているらしい大きい小いそれらの店が、お島の腕をむずむずさせた。見たところ派手でハイカラで儲《もうけ》の荒いらしいその商売が、一番自分の気分に適《ふさ》っているように思えた。
「田町の方に、こんな家があるんですがね」
お島はもと郵便局であった、間口二間に、奥行三間ほどの貸家を目っけてくると、早速小野田に逢ってその話をした。金をかけて少しばかり手入をすれば、物に成りそうに思えた。
「取着《とりつき》には持ってこいの家だがね」
持主が、隣の酒屋だと云うその家が、小野田にも望みがありそうに思えた。
「あすこなら、物の百円とかけないで、手頃な店が出来そうだね。それに家賃は安いし、大家の電話は借りられるし」
幾度足を運んでも、母親が頑張《がんば》って金を出してくれない生家《うち》から、鶴さんと別れたとき搬《はこ》びこんで来たままになっている自分の箪笥《たんす》や鏡台や着物などを、漸《やっ》とのことで持出して来たとき、お島は小野田や自分の手で、着物の目星しいものをそっち此方《こっち》売ってあるいた。
もと大秀の兄弟分であった大工が愛
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