日のうちにも話をつけて、払うべき借金は綺麗に払って、連れて帰ろうと主張するのであった。
 お島はその問題には、なるべく触れないようにして、父親の酒の酌をしたり、夕飯の給仕をしたりすると、奥の部屋に寝転んでいる浜屋の主人のところへ来て、自分の身のうえについて、密談に※[#「※」は、「日」の下に、「咎」の「人」を「卜」に替えたものを置いた形、第3水準1−85−32に包摂、109−4]《とき》を移していたが、お島を返すとも返さぬとも決しかねて、夜になってしまった。
「人の妾《めかけ》なぞ私死んだって出来やしない。そんな事を聴《きか》したら、あの堅気な人が何を言って怒るかしれやしない」
 浜屋が自分で、直《じか》に父親に話をして、当分のうちどこかに囲っておこうと言出したときに、お島はそれを拒んで言った。そうすれば、精米所の主人に、内密《ないしょ》で金を出してもらって、T――市の方で、何かお島にできるような商売をさせようと云うのが、浜屋の考えつめた果《はて》の言条《いいじょう》であった。春の頃から、東京から取寄せた薬が利きだしたといって、この頃いくらか好い方へ向いて来たところから、近いうち戻って来ることになっている嫁のことをも、彼は考えない訳に行かなかった。そしてそれが一層男の方へお島の心を粘《へばり》つかせていった。
 奥まった小さい部屋から、二人の話声が、夜更までぼそぼそ聞えていた。
 その夜なかから降り出した雨が、暁になるとからりと霽《はれ》あがった。そしてお島が起出した頃には、父親はもうきちんと着物を着て、今にも立ちそうな顔をして、莨をふかしていた。

     五十九

 お島が腫《はれ》ぼったいような目をして、父親の朝飯の給仕に坐ったのは、大分たってからであった。明放した部屋には、朝間《あさま》の寒い風が吹通って、田圃《たんぼ》の方から、ころころころころと啼《な》く蛙《かわず》の声が聞えていた。
「今日は雨ですよ。とても帰れやしませんよ」お島は縁《えん》の端《はじ》へ出て、水分の多い曇空を眺めながら呟《つぶや》いた。
「さあ、どういう風になっているんですかね、私にもさっぱりわからないんですよ。多分お金なんか可《い》いんでしょう」
 ここに五十両もって来ているから、それで大概借金の方は片着く意《つもり》だからといって、父親が胴巻から金を出したとき、お島は空※[#「※」は「りっしんべん」に「兄」、第3水準1−84−45、110−8]《そらとぼ》けた顔をして言った。
「それじゃ御父さん恁《こ》うしましょう。私も長いあいだ世話になった家ですから、これから忙《いそが》しくなろうと云うところを見込んで、帰って行くのも義理が悪いから、六月一杯だけいて、遅くともお盆には帰りましょう」
 お島はそうも言って、父親を宥《なだ》め帰そうと努めたが、こんな所に長くいては、どうせ碌なことにはならないからと言張って、やっぱり肯《き》かなかった。田舎へ流れていっている娘について、近所で立っている色々の風聞が、父親の耳へも伝わっていた。
「立つにしたって、浜屋へもちょっと寄らなくちゃならないし、精米所だって顔を出さないで行くわけにいきやしませんよ。私だって髪の一つも結わなくちゃ……」お島は腹立しそうに終《しまい》にそこを立っていったが、父親も到頭職人らしい若い時分の気象を出して、娘の体を牽着《ひきつ》けておく風の悪い田舎の奴等が無法だといって怒りだした。
「お前と己とじゃ話のかたがつかねえ。誰でもいいから、話のわかるものを此処《ここ》へ呼んできねえ」
 父親は高い声をして言出した。
 廊下をうろうろしていたお島の姿が、やがて浴場の方に現われた。
 お島は目に一杯涙をためて、鏡の前に立っていたが、硝子戸《ガラスど》をすかしてみると、今起きて出たばかりの男の白い顔が、湯気のもやもやした広い浴槽のなかに見られた。
「弱っちまうね、御父さんの頑固《がんこ》にも……」お島はそこへ顔を出して、溜息を吐《つ》いた。
「何といったって駄目だもの」
 どうしようと云う話もきまらずに、そこに二人は暫《しばら》く立話をしていたが、するうち※[#「※」は、「日」の下に、「咎」の「人」を「卜」に替えたものを置いた形、第3水準1−85−32に包摂、111−8]《とき》が段々移っていった。
 浜屋が湯からあがった時分には、お島の姿はもう家のどの部屋にも見られなかった。
 町を離れて、山の方へお島は一人でふらふら登って行った。山はどこも彼処《かしこ》も咽《むせ》かえるような若葉が鬱蒼《うっそう》としていた。痩《や》せた菜花《なたね》の咲いているところがあったり、赭土《あかつち》の多い禿山《はげやま》の蔭に、瀬戸物を焼いている竈《かまど》の煙が、ほのぼのと立昇っていたりした。お島は静かなその山のなかへ、ぐんぐん入っていった。誰の目にも触れたくはなかった。どこか人迹《ひとあと》のたえたところで、思うさま泣いてみたいと思った。

     六十

 山の方へ入って行くお島の姿を見たという人のあるのを頼りに、方々捜しあるいた末に、或松山へ登って行った浜屋と父親との目に、猟師に追詰められた兎か何《なん》ぞのように、山裾の谿川《たにがわ》の岸の草原に跪坐《しゃが》んでいる、彼女の姿の発見されたのは、それから大分たってからであった。
 赤い山躑躅《やまつつじ》などの咲いた、その崖《がけ》の下には、迅《はや》い水の瀬が、ごろごろ転がっている石や岩に砕けて、水沫《しぶき》を散《ちら》しながら流れていた。危い丸木橋が両側の巌鼻《いわはな》に架渡《かけわた》されてあった。お島はどこか自分の死を想像させるような場所を覗《のぞ》いてみたいような、悪戯《いたずら》な誘惑に唆《そそ》られて、そこへ降りて行ったのであったが、流れの音や、四下《あたり》の静《しずけ》さが、次第に牾《もどか》しいような彼女の心をなだめて行った。
 人の声がしたので、跳《はね》あがるように身を起したお島の目に、松の枝葉を分けながら、山を降りて来る二人の姿がふと映った。お島は可恥《はずか》しさに体が慄然《ぞっ》と立悚《たちすく》むようであった。
 お島は二人の間に挟《はさ》まれて、やがて細い崖道を降りて行ったが、目が時々涙に曇って、足下《あしもと》が見えなくなった。
 父親に引立てられて、お島が車に乗って、山間のこの温泉場を離れたのは、もう十時頃であった。石高な道に、車輪の音が高く響いて、長いあいだ耳についていた町の流れが、高原の平地へ出て来るにつれて、次第に遠ざかって行った。
 夏時に氾濫《はんらん》する水の迹の凄いような河原を渉《わた》ると、しばらく忘れていたS――町のさまが、直《じき》にお島の目に入って来た。見覚えのある場末の鍛冶屋《かじや》や桶屋《おけや》が、二三月前の自分の生活を懐かしく想出させた。軒の低い家のなかには、そっちこっちに白い繭《まゆ》の盛《も》られてあるのが目についた。諸方から入込んでいる繭買いの姿が、めっきり夏めいて来た町に、景気をつけていた。
 お島は浜屋で父親に昼飯の給仕をすると、碌々《ろくろく》男と口を利くひまもなく、直《じき》に停車場《ステーション》の方へ向ったが、主人も裏通りの方から見送りに来た。
「帰ってみて、もし行《い》くところがなくて困るような時には、いつでも遣って来るさ」浜屋は切符をわたすとき、お島に私語《ささや》いた。
 停車場では、鞄《かばん》や風呂敷包をさげた繭商人《まゆあきゅうど》の姿が多く目に立った。汽車に乗ってからも、それらの人の繭や生糸の話で、持切りであった。窓から頭を出しているお島の曇った目に、鳥打をかぶって畔伝《あぜづた》いに、町の裏通りへ入って行く浜屋の姿が、いつまでも見えた。汽車の進行につれて、S――町や、山の温泉場の姿が、段々彼女の頭脳《あたま》に遠のいて行った。深い杉木立や、暗い森林が目の前に拡がって来た。ゆさゆさと風にゆられる若葉が、蒼い影をお島の顔に投げた。
 自分を窘《いじ》める好い材料を得たかのように、帰りを待ちもうけている母親の顔が、憶い出されて来た。お島はそれを避けるような、自分の落つき場所を考えて見たりした。

     六十一

 汽車が武蔵《むさし》の平野へ降りてくるにつれて、しっとりした空気や、広々と夷《なだら》かな田畠や矮林《わいりん》が、水から離れていた魚族の水に返されたような安易を感じさせたが、東京が近《ちかづ》くにつれて、汽車の駐《とど》まる駅々に、お島は自分の生命《いのち》を縮められるような苦しさを感じた。
「このまま自分の生家《うち》へも、姉の家へも寄りついて行きたくはない」お島は独りでそれを考えていた。
「何等かの運を自分の手で切拓《きりひら》くまでは、植源や鶴さんや、以前の都《すべ》ての知合にも顔を合したくない」と、お島はそうも思いつめた。
 王子の停車場《ステーション》へついたのは、もう晩方であったが、お島は引摺《ひきず》られて行くような暗い心持で、やっぱり父親の迹《あと》へついて行った。静かな町にはもう明《あかり》がついて、山国に居なれた彼女の目には、何を見ても潤いと懐かしみとがあるように感ぜられた。
 父親が、温泉場で目っけて根ぐるみ新聞に包んで持って来た石楠花《しゃくなげ》や、土地名物の羊羹《ようかん》などを提げて、家へ入って行ったとき、姉も自分の帰りを待うけてでもいたように、母親と一緒に茶の間にいた。もう三つになったその子供が歩き出しているのが、お島の目についた。
「へえ、暫く見ないまにもうこんなになったの」お島は無造作に挨拶をすますと、自分の傷ついた心の寄りつき場をでも見つけたように、いきなりその子供を膝《ひざ》に抱取った。
「寅坊《とらぼう》、このおばちゃんを覚えているかい。お前を可愛がったおばちゃんだよ」
 羊羹の片《きれ》を持たされた子供は、直《じき》にお島に懐《なつ》いた。
「何て色が黒くなったんだろう」姉はお島の山やけのした顔を眺めながら、可笑《おかし》そうに言った。お島の様子の田舎じみて来たことが、鈍い姉にも住んでいた町のさまを想像させずにはおかなかった。
「一口に田舎々々と非《くさ》すけれど、それあ好いところだよ」お島はわざと元気らしい調子で言出した。
「だって山のなかで、為方《しかた》のないところだというじゃないか」
「私もそう思って行ったんだけれど、住んでみると大違いさ。温泉もあるし、町は綺麗だし、人間は親切だし、王子あたりじゃとても見られないような料理屋もあれば、芸者屋もありますよ。それこそ一度姉さんたちをつれていって見せたいようだよ」
「島ちゃんは、あっちで、なにかできたっていうじゃないか。だからその土地が好くなったのさ」
「嘘ですよ」お島は鼻で笑って、「こっちじゃ私のことを何とこそ言ってるか知れたもんじゃありゃしない。困って酌婦でもしていると思ってたでしょう。これでも町じゃ私も信用があったからね、土地に居つくつもりなら、商売の金主《きんしゅ》をしてくれる人もあったのさ」
「へえ、そんな人がついたの」

     六十二

 山の夢に浸っているようなお島は、直に邪慳《じゃけん》な母親のために刺戟《しげき》されずにはいなかった。以前から善く聴きなれている「業突張《ごうつくばり》」とか「穀潰《ごくつぶ》し」とかいうような辞《ことば》が、彼女のただれた心の創《きず》のうえに、また新しい痛みを与えた。
 お島が下谷《したや》の方に独身で暮している、父親の従姉《いとこ》にあたる伯母のところに、暫く体をあずけることになったのは、その夏も、もう盆過ぎであった。素《もと》は或由緒のある剣客の思いものであったその伯母は、時代がかわってから、さる宮家の御者《ぎょしゃ》などに取立られていた良人《おっと》が、悪い酒癖《しゅへき》のために職を罷《や》められて間もなく死んでしまった後は、一人の娘とともに、少《すこし》ばかり習いこんであった三味線を、近所の娘達に教えなどして暮していたが、今は商売をしている娘の時々の仕送
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